街歩き 庭めぐり

<はじめに>

街歩きは、今や年齢に関わりなく、多くの人の楽しみとなっています。人それぞれの興味や趣味の違いによって、街の選び方、ルートの選定も多様多彩になるものです。

このブログでは、ガーデンデザイナーとしての私が、街歩きの中で見つけた、面白いもの、きれいなもの、不思議なもの、すごいもの等々をご紹介するとともに、東京に残る、江戸や明治・大正・昭和といった近代に造られた庭をめぐり、その魅力や歴史や見所を少しずつご紹介していきたいと思っています。

 

<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園>

神田川沿いの街歩き

甘泉公園 江戸の大名庭園にさかのぼる歴史を持つ庭園

大隈庭園 明治期の特色を残す庭園

 

<神田川沿いの街 目白台の街と庭園>

神田川沿いの街歩き

新江戸川公園

芭蕉庵

<神田川沿いの街 関口台の街と庭園>

関口台町 

椿山荘庭園

<白金台の街と庭園>

池田山

池田山公園

白金台の裏道・小道

八芳園庭園

桑原坂界隈

シェラトン都ホテル東京の庭園

<消えた渋谷川と街と庭園>

新宿内藤町

<お客様の街で見つけた風景>

2019年

1月

06日

<消えた渋谷川と街と庭園ー12>

新宿内藤町 ⑫

 

□新宿御苑のまわりを歩く・石塀 (12)

 内藤町は、どこか戦前の屋敷町の感じが、残り香のように漂っています。車の通行も少なく、人の姿もまばらで、戦前のものと思われる和風の住宅に古い石の塀をもつ屋敷や、屋根の向こうにケヤキの大木が大きく枝を広げている風景が、そうした印象をもたらしているのでしょう。ことに古い石塀は、今では都内でも見ることの少なくなった房州石と思われる切り石をを積んだ塀で、この塀は明治時代に作られたもののように思われます。

 房州石は、石の表面に白い刷毛ではいたような模様が出るのが特徴です。上の写真では、その房州石と共に色合いの異なる石も見えていて、塀の基礎に据えている石と笠木は黒味が強く伊豆石のようです。こうした異なる石を併用するのは、房州石が軟石のために、雨水がかかり風化しやすい部分に硬い伊豆石を使うことによって、傷みを少なくして永く保たせる工夫で、これも昔の手法です。

 

 一方門柱は、細かい化粧砂利を洗い出したもので、昔は人造石仕上げと言われていました。この仕上げ方は、セメントが安価になり広く使われるようになった昭和初期以降の手法ですので、古い明治の石塀を生かしながら門を後から付けたものと思われます。

 房州石は、千葉の鋸山周辺で採掘された凝灰岩の一種で、江戸時代末期の頃から明治期にかけて横浜や東京に大量に運ばれ、土木資材や石垣、塀として使われた石材です。しかし大正期に入ると大谷石に取って代わられ、現在では採掘できなくなった明治期に特有の石材でもあります。

 

 

 そのためこの石塀は、明治時代のものと考えられるのですが、都内で現在も見ることのできるのはそう多くはありません。いくつかの社寺の塀の他には、港区三田のイタリア大使館(旧松方公爵邸)や南麻布のフィンランド大使館(旧鷹司公爵邸)、文京区西方の旧阿部伯爵邸跡などの旧華族の屋敷の塀や石垣に使用されているのを見ることができるくらいです。

 

 内藤町の石塀は、多武峰神社の北側の並びにありますが、ここにはかつて内藤子爵家の広い屋敷がありましたので、房州石の石塀は、そうした華族の大邸宅にふさわしい外囲いとして設けられていたものと思われるのです。

 

 現在住まわれている方は、内藤家の人々ではないようです。しかし古い石塀を残しながら入り口部分を改修して新たに門を設けたものと思われますが、こうして石塀を残してくれたことで、内藤町の歴史を伝える記念物ともいえる塀が残ることになったのですから、なんとも貴重な塀ということができるでしょう。

 

 内藤町は今、古くからの住宅が取り壊されてマンションが建設される動きが活発になり、急激に変わろうとしているようです。しかしそうした中だからこそ、明治から続く屋敷町の風情を守り、歴史を伝える石塀をぜひとも保存してもらいたいと願っています。

 

 

参考文献:『近代エクステリアの歴史』日本エクステリア学会 建築資料研究社 2018年

 

<<消えた渋谷川と街と庭園ー11 新宿内藤町⑪

2018年

12月

25日

<消えた渋谷川と街と庭園ー11>

新宿内藤町 ⑪

 

□新宿御苑のまわりを歩く・多武峰神社 (11)

 渋谷川の流路をたどることはここで一度中断して、再び内藤町に戻ることにします。御苑の正門前を通り、外苑西通りから内藤町の裏道に入りますと、車の走行音も途絶えて、静かで落ち着いた住宅街になります。

 内藤町は、明治5年に内藤家がこの地に移転してからできた町ですが、その中心ともいえる場所に多武峰内藤神社があります。

 

 多武峰(とうのみね)という神社名はあまり目にしたことのない名ですが、元々は内藤家の中屋敷に祀られていた邸内社で、内藤氏の本姓藤原氏の祖、中臣鎌足を祀った奈良の多武峰神社(現談山神社)を勧請した、藤原氏の氏神だったのです。

 内藤家の氏神を、内藤町の氏神としても祀ることになったのは、住宅が立ち並び住民が増えた大正10(1921)年に、内藤家の承認を得てからのことであったようです。新しい町であった内藤町の住民にとっては、地域のコミュニティの核としても、精神的なよりどころとしても神社が求められたのでしょう。事実町内の行事や町内会の活動は、境内や境内に設けられた公園で行われ、町会の事務所も社務所内に置かれていました。(『内藤新宿昭和史』)

 境内はさほど広くはありませんが、渋谷川の流れる西側と南側は土地が低くなっていて、それよりもわずかに高い台地の端に南面している境内は、限られた内藤家の土地の中でよくぞ見出したと思えるような、地形的には神社として最適の立地といえるでしょう。

 

 アカガシ、アラカシなどの常緑樹に、ケヤキ、エノキ、イチョウ、サクラなどの落葉樹を交えた古木が立ち並ぶ境内からは、今でも家並みの向こうに御苑の森を望むことができます。

 

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2018年

12月

02日

<消えた渋谷川と街と庭園ー10>

新宿内藤町 ⑩

 

□新宿御苑のまわりを歩く・大京町 (10)

 渋谷川の流路跡の大番児童遊園は、およそ100mほど続いてやがてJR 中央・総武線の土手に突き当たり、右に曲がっています。その土手にはレンガで何かをふさいだような構造物がありますが、これは渋谷川が線路の下をくぐり抜けていたトンネル状の水路をふさいだものと思われます。

 土手の下をくぐった流れは、その先の国立競技場の脇を流れ下っていましたが、写真のこの場所は渋谷川の本来の源流である新宿天龍寺境内に湧いていた湧水が、御苑の中を流れてここで余水吐の流れと合流していたところでした。その流れの跡が線路沿いに右手に延びている空地で、外苑西通りまで続いています。

 

 外苑西通りから先は、流れの痕跡は途絶えてしまいますが、古地図を頼りに道路を渡り、御苑沿いの細い道に入ります。下の左側の写真に見るように、この道は一度御苑に突き当たり左に曲がって行くと千駄ヶ谷の駅に至ります。古地図では、その突き当たった所が渋谷川の御苑からの流出口になっています。

 

 

 また古地図では、御苑から流れ出た水路はわずかに御苑沿いを流れると、道路から脇にそれ南側の住宅地の中に入っていましたが、その形跡は右の写真の、広い道が突然狭まっている辺りから右に切れ込んでいたのではないかと思われます。

 

 ところで渋谷川が流れていたこの一画は、西と北を御苑に囲まれ、東側は外苑西通りに、そして南は中央・総武線の線路に限られたきわめて狭い、他から孤立した町です。しかし住所はといえば、新宿区大京町と渋谷区千駄ヶ谷とに分かれていて、つまり新宿区と渋谷区との区境でもあるのです。

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