街歩き 庭めぐり

<はじめに>

街歩きは、今や年齢に関わりなく、多くの人の楽しみとなっています。人それぞれの興味や趣味の違いによって、街の選び方、ルートの選定も多様多彩になるものです。

このブログでは、ガーデンデザイナーとしての私が、街歩きの中で見つけた、面白いもの、きれいなもの、不思議なもの、すごいもの等々をご紹介するとともに、東京に残る、江戸や明治・大正・昭和といった近代に造られた庭をめぐり、その魅力や歴史や見所を少しずつご紹介していきたいと思っています。

 

<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園>

神田川沿いの街歩き

甘泉公園 江戸の大名庭園にさかのぼる歴史を持つ庭園

大隈庭園 明治期の特色を残す庭園

 

<神田川沿いの街 目白台の街と庭園>

神田川沿いの街歩き

新江戸川公園

芭蕉庵

<神田川沿いの街 関口台の街と庭園>

関口台町 

椿山荘庭園

<白金台の街と庭園>

池田山

池田山公園

白金台の裏道・小道

八芳園庭園

桑原坂界隈

シェラトン都ホテル東京の庭園

<消えた渋谷川と街と庭園>

新宿内藤町

新宿御苑

<お客様の街で見つけた風景>

2021年

4月

07日

<消えた渋谷川と街と庭園ー37>

新宿御苑 ㉒

 

□池庭・日本庭園 (5)

 

 この庭を構成しているのは、これまで見てきた上の池から続く細長い水路(流れ)の庭、そして旧渋谷川北岸の斜面を中心とする芝庭と、もう一つの旧渋谷川の谷底に連なる池を中心とした池庭で、その全体が日本庭園とよばれています。芝庭は、明治期の近代和風庭園と言われていて、玉藻池の芝庭や上の池まわりと共通する作風を感じますが、池庭はそれとはかなり異なる造りがされているように思われます。

 

 

 

 

 御苑の他の池と最も大きく異なるのは、池の汀線が細かい出入りを見せていてやや複雑な形になっていることです。そして護岸には他の池にはあまり見られない多くの石材を使って石が組まれ、沢飛び石や拝石など日本庭園の伝統的手法によって造られた見せ場が、そこかしこに散りばめられていることでしょう。灯篭や石塔なども他の庭に比べると多く見られ、日本庭園らしい景観を作り出しています。

 

 近代和風庭園といわれる他の池では、汀線の出入りも少ないシンプルな形で、護岸は丸太の乱杭であったり、石材であっても玉石や黒朴石などの、庭石としては安価で風情のないありふれた石を並べたような単調なものが多いのですが、この庭だけがなぜか石組などを多用した伝統的な造りになっているのです。

 

 この作風の違いは、マルチネー案の改修工事が開始される直前の明治34(1901)年に、動物園の鴨池を日本庭園に改修する工事が行われていて、「この工事には当時すでに名の知られていた庭師小沢広作が専属の園丁に採用され、彼の手で進められ、五か年事業の始まった年には完成した。」(『新宿御苑』金井利彦)ことにあるのかもしれません。

 

 この時の工事は、明治13年(1880)以来利用されてきた鴨池一帯を、動物園とするとともに日本庭園に改造する工事の一環として行われたもので、その際に玉川園から灯篭や「瀧口水路の庭石取解使用があった。」(「玉川園の築造と新宿御苑の変遷について」中島卯三郎)という記述は、玉川上水の余水吐から取り入れていた水を、池に落とした滝口周辺の石組を解体し、他に使用したということで、時期的にも、使われている状況からも、それらが日本庭園に「使用」されたのではないかと思われるのです。

 

 こうした経緯で造られた池庭は、玉藻池と共にマルチネー案による改修工事の範囲から除外されたために、必然的に他の自然風景式や、近代和風庭園の部分とは異なる印象の庭であり続けたと考えられるのです。

 

 

引用文献:「玉川園の築造と新宿御苑の変遷について」中島卯三郎『造園雑誌』第14巻1号 1950年9月

参考文献:『新宿御苑』金井利彦 郷学舎 1980年

 

<<消えた渋谷川と街と庭園ー36 新宿御苑㉑

 

 

 

 

 

 

 

2021年

3月

22日

<消えた渋谷川と街と庭園ー36>

新宿御苑 ㉑ 

 

□芝庭・日本庭園 (4)

 

 芝生の中にタギョウショウの点在する斜面の丘の上には、茶室で売店も兼ねる翔天亭があります。木造瓦葺の建物は、背後に樹林を背負い、目の前から池に向かって下る芝庭を見下ろす位置に建つだけに、庭全体を一望できるのではないかと思い丘に登ってみました。そして売店の前から眺めますと、周囲を樹林に囲まれた日本庭園が見渡せますが、ただ池のほとりの、中華風のそりの強い、赤い屋根を見せているはずの旧御涼亭(以前は台湾閣と言っていました)が見えません。

  

 これはなんとも思いがけないことでした。それというのも、翔天亭には何度も来ていてこの景色を見ているはずで、それでもここから旧御涼亭が見えるものと思い込んでいたのですから、自分がいかにボーッと景色を眺めていたのか、自らの事ながらあきれてしまいます。

 

 それはともかく、方向的には下の写真の画面の中央、芝生の途切れた場所にある2本の杉の向こう側のはずです。杉の成長によって隠れてしまったのでしょうか。いや、やはり成長の早い杉をその位置に植えればどうなるかということは、専門家はわかっているはずですので、隠すために植栽されたものと考えて間違いはないでしょう。ということは、ここからあえて旧御涼亭を眺めることができないようにしていたことになりますが、なぜだったのでしょうか。

 

 

 そこで、隠された向こう側からはこちら側がどう見えるのか見てみようと思い、池を渡って旧御涼亭に向かいます。

 旧御涼亭から池越しに芝生の庭を、つまり翔天亭方向を見たところです。ここからはやはり翔天亭は見えませんが、建っている位置は池の対岸の、日の当たっている杉の向こう側です。みごとに隠されていて、これはどうもお互いの建物を意図的に見えないようにしたとしか思われません。

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2020年

11月

04日

<消えた渋谷川と街と庭園ー35>

新宿御苑 ⑳

 

□芝庭・日本庭園 (3)

 

 流れはやがて広い池につながっていきます。流れの庭の、南北に視界が狭められた空間から、歩みを進めるににつれて空間が広がり、絞られた視界が少しづつ解放されて、次の庭の異なる景観が展開する手法です。そこでは池の広がりだけではなく、旧渋谷川の北岸の斜面全体に芝生が広がっていて、そのところどころに樹高の低い傘型に樹冠を広げたタギョウショウ(多行松)が植栽されている明るい庭になっています

 この特異な樹形を持つタギョウショウは、「アカマツの変種であり雌雄同株で、樹形は株立ち状根元近くから多数の幹を分ち樹冠は倒円錐形を呈する。樹皮、葉形はアカマツと同じ。」(『樹木ガイドブック』上原敬二)ですが、公園や庭園でもあまり見かけない樹木です。

 

 御苑ではこの日本庭園と、イギリス風景式庭園の、中の池に面した斜面の芝生内に植栽されていますが、特徴のある樹形ですが和風にも洋風にも調和する印象から、選ばれているのではないかと思われます。

 

 そうした植栽の選択や、芝生の中をめぐる曲線の園路からは、この庭は日本庭園とはいえ洋風も加味された明治期の近代和風庭園と考えられますが、この庭のようにタギョウショウを多く植栽した庭は、東京ではほとんど残っていないのではないでしょうか。

 そんな中で 明治期のタギョウショウを主とした庭の例として、写真だけですが残されていて、御苑の庭との類似性を感じさせるのは、目白台にあった旧細川公爵家本邸(現目白台運動公園)の庭園でしょう。

 明治期の庭園が紹介されている『名園五十種』(明治43年刊)に収められている写真は、「洋館と書院の前の一部を飾る広庭」ということで、洋風にも和風にも調和する庭が求められたものと思われます。広さは、およそ二百メートル四方もあるという芝庭は、奥から手前に緩やかな傾斜を見せ、奥にタギョウショウ、手前に低木の半円形の刈り込みと、御苑の庭と共通する要素と景観を見せています。

 

 『名園五十種』では、このあたりの説明は「東京名物の禿松(かむろまつ)を饅頭形に造(か)り込んで・・・高さは七八尺から低いのでも人の丈程のが位置よく玆所彼所(ここかしこ)に植はってその間を白砂を敷いた小径(こみち)が縦横(たてよこ)に屈曲して付けてある、又径(こみち)の傍らには霧島躑躅(きりしまつつじ)や丁香(ちょうじ)を同じ姿に刈り込んだのが散在して」とあり、タギョウショウは禿松とよばれていて、東京名物とされていたようです。

 

 この禿松という名称は、手元にある上原氏の『樹木ガイドブック』にも、飯島亮・安蒜俊比古氏の『庭木と緑化樹』にもタギョウショウの別名としては載っていませんが、禿は遊郭で遊女に使われる女の子のことを言い、またその女の子が髪をおかっぱにしていたことから、樹冠の形をおかっぱの髪型に見立ててよんだ俗称ではないかと思われます。しかしその禿松が、東京名物と言われていたことは、全く知りませんでした。和洋折衷式の近代和風庭園が盛んに造られた明治という時期と、東京という土地に限って多く使われていたのかもしれません。

 

 ところで細川公爵邸の庭園ときわめて似ている庭園景観については、両方とも宮内省内匠寮の設計によるためではないかと思われます。細川公爵家本邸の建築の完成は、洋館が明治25年(1892)、和館が翌26(1893)年の完成で、庭園もほぼ同じころと考えられます。洋館の設計が片山東熊、和館は木子清敬と共に宮内省内匠寮の技師でした。おそらくこの時には庭園も内匠寮によって設計されたのではないでしょうか。一方新宿御苑は、完成が明治39(1906)年で、基本設計はアンリ・マルチネーですが、細部の、ことに日本庭園の部分については福羽逸人をはじめとする内匠寮の技師の設計によるものです。つまりこうした作庭手法は、宮内省内匠寮の作風とも言えるのかもしれません。

 

図版出典:『名園五十種』近藤正一 博文館 1910年(明治43年)

引用文献: 同上書

     『樹木ガイドブック』上原敬二 加島書店 1990年

参考文献:『新宿御苑』金井利彦 郷学舎 1980年

 

<<消えた渋谷川と街と庭園ー34 新宿御苑⑲

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