街歩き 庭めぐり

<はじめに>

街歩きは、今や年齢に関わりなく、多くの人の楽しみとなっています。人それぞれの興味や趣味の違いによって、街の選び方、ルートの選定も多様多彩になるものです。

このブログでは、ガーデンデザイナーとしての私が、街歩きの中で見つけた、面白いもの、きれいなもの、不思議なもの、すごいもの等々をご紹介するとともに、東京に残る、江戸や明治・大正・昭和といった近代に造られた庭をめぐり、その魅力や歴史や見所を少しずつご紹介していきたいと思っています。

 

<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園>

神田川沿いの街歩き

甘泉公園 江戸の大名庭園にさかのぼる歴史を持つ庭園

大隈庭園 明治期の特色を残す庭園

 

<神田川沿いの街 目白台の街と庭園>

神田川沿いの街歩き

新江戸川公園

芭蕉庵

<神田川沿いの街 関口台の街と庭園>

関口台町 

椿山荘庭園

<白金台の街と庭園>

池田山

池田山公園

白金台の裏道・小道

八芳園庭園

桑原坂界隈

シェラトン都ホテル東京の庭園

<消えた渋谷川と街と庭園>

新宿内藤町

<お客様の街で見つけた風景>

2019年

3月

09日

<<消えた渋谷川と街と庭園ー15>

新宿内藤町 ⑮

 

□新宿御苑のまわりを歩く・住宅地の歴史 (15)

 内藤町の変化ということでは、今が最も激しい変化をする時なのかもしれません。町を歩いていると、町内のあちこちで住宅がなくなって、更地になっている土地や建設中のマンションの現場を見かけます

 おそらく空地になっている土地にも、マンションかビルが建つのでしょうが、こうした変化はなんとも止めようのない時代の動きなのでしょう。

 

 これらの土地以外にも、変わっていく土地がありましたが、なかでも『総覧日本の建築』に「回遊式庭園と武家屋敷風の玄関を持つ」と紹介されていた、町の南端で渋谷川に接していた矢崎邸もいつのまにか空地になっていました。

 上の左の写真は平成20(2008)年頃の矢崎邸の前です。門の奥に見える平屋の瓦屋根を庭木が覆うように茂り、南に下る地形の先に新宿御苑の森を借景にできる土地で、この屋敷ならば回遊式の庭園が造られていても当然と思われるたたずまいです。どこかに庭園の記録などは残されていないのかと、つい自分の興味のある方へ考えてしまいます。

 

 右の写真は平成30(2018)年の4月です。家も庭木もことごとく姿を消して、工事用の囲いで閉ざされた広々とした敷地一面に雑草が生い茂っていました。マンションにするならば、新宿御苑を眼下に見下ろす絶好のロケーションです。(御苑側からの景観は悪化するわけですが…)

 

 また、多武峰内藤神社の脇から更に西側の細い路地を入った、内藤町でも最も戦前の町らしい景観を止めていた一画でも変化は起こっていました。前回の武英雄氏の描かれた地図では小山邸となっていた土地です。

 

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2019年

2月

06日

<消えた渋谷川と街と庭園ー14>

新宿内藤町 ⑭

 

□新宿御苑のまわりを歩く・住宅地の歴史 (14)

 武英雄氏の『内藤新宿昭和史』は、内藤町に永年住んでいる人だからこその、町内の人の動静も記されていますが、なにより戦前の昭和16(1941)年と、戦後の昭和60(1985)年の町内すべての住宅の敷地と住民の名前が記されている手書きの地図が、街の変化を教えてくれます。

 左の地図は昭和16年の内藤町の地図ですが、各戸の敷地と名前が記された、現代の住宅地図といったところでしょうか。

 

 大番町の通りは、すでに拡幅されて改正道路と記されています。目につくのは町の中心に内藤家の広い屋敷があることと、各戸の敷地が全体に広く取られていることです。おそらくそこには庭が造られていて、今もところどころに残るケヤキの大木や、庭の木々が緑豊かな環境をつくりだしていたものと思われます。

 

 ことに町の南側の御苑沿いの6号地、8号地、10号地は敷地が広く、戦時中に内藤家の屋敷は焼失したものの、その他の家は戦災を免れて戦前の家が残った地区だったようです。

 

 また町を南北に貫く道の両側には、内藤家ゆかりの信州高遠のコヒガンザクラが植えられていて、春には花が咲き誇っていたといいますので、なんとも贅沢な隠れた花の名所だったのかもしれません。

 

 こうしたゆったりとした宅地の配置と緑豊かな屋敷町の景観が、『総覧日本の建築』の記す「風格のある住宅地」という印象を生んでいたのでしょう。

 

 

 

 

 次に昭和60年の地図を見ますと、この時にはまだ新宿御苑トンネル(甲州街道)ができる前で、この後トンネルの工事で、1号地と2号地の半分ほどが削られることになります。その部分が空地や広場になっているのは、すでに土地の買収が終わっていたためでしょう。 

 

 それはそれとして、町内の最も大きな変化は、内藤家の敷地が大きく減少していることです。こうした変化は、戦後の富裕税の導入や相続税の改正によって、内藤家に限らず多くの地主層、富裕層に起こったことで、この時期に土地を手放し由緒ある建物や庭園が失われた例は、数多く見られました。

 

内藤家の敷地の減少も、そうした時代を映した現象だったのでしょう。

 

 また、全体に各戸の敷地が分割されて、戸数が増加しているのに伴い、個々の敷地が狭くなっています。そして、ところどころに集合住宅や企業などの寮、社宅ができていて、この時期から街並みが大きく変わっていったことも想像されます。

 

 ところで、『総覧日本の建築』が出版されたのは昭和62(1987)年ですので、この昭和60年の状態を示している地図とは、ほぼ同じころの町の様子を記しているのではないかと思われますので、その文章を次に引用してみます。

 

「戦後、内藤町の土地は一部売りに出され、集合住宅が数多く建つようになり、戦前からの住宅も少なくなったが、現在でも新宿御苑に接する静寂な住環境を保っている。回遊式庭園と武家屋敷風の玄関をもつ矢崎邸や和風に文明開化の息吹をとり入れた三溝邸をはじめ、いくつか残る武家屋敷風の明治の住宅が昭和のモダンな住宅とミックスしている。」

 

 このように、昭和も末の60年頃にあっても、集合住宅が増えたとはいえ、戦災を免れた戦前の住宅が残っていたことがわかります。そしてまたそれらがあることによって、戦前の面影が残る住宅地という印象も失なわれてはいなかったのです。そのことは、私がはじめて内藤町を訪れた平成10(1998)年頃にも私自身が感じた印象で、よくぞこのような町が残っていたものだと当時思ったのでした。

 

図版出典:『内藤新宿昭和史』武英雄著・発行 紀伊國屋書店発売 1998年

引用文献:『内藤新宿昭和史』武英雄著・発行 紀伊國屋書店発売 1998年

     『総覧日本の建築第3巻/東京』日本建築学会編 新建築社 1987年

 

<<消えた渋谷川と街と庭園ー13 新宿内藤町 ⑬

>>消えた渋谷川と街と庭園ー15 新宿内藤町 ⑮

2019年

1月

26日

<消えた渋谷川と街と庭園ー13>

新宿内藤町 ⑬

 

□新宿御苑のまわりを歩く・住宅地の歴史 (13)

 住宅地としての内藤町の歴史については、『総覧日本の建築第3巻/東京』に簡略にまとめた次のような記述があります。

 

「旧内藤家中屋敷の一部に明治以降形成された屋敷町。明治維新後、現新宿御苑から移転した内藤家は、明治中期以降の市電、中央線の開通により市中との距離が近づいたこともあって、自屋敷のほかはほとんど茶畑・桑畑だった当地で貸地貸家経営をはじめた。昭和初期には、多武峰神社を中心に、主に高級軍人が住む風格のある住宅地が完成した。また、甲州街道沿いや町の東の改正道路に面しては早くから商業建築が建ちはじめ、内側の閑静な住宅地とは正反対の様相を呈していた。」

 この記述によれば住宅地としての内藤町は、内藤家の屋敷と内藤家の経営した貸地貸家からはじまったことがわかります。しかし簡略であるがゆえに不明な点があります。その一つは昭和初期には住宅地が完成した、ということです。しかし住宅地の完成とは、何をもって完成とするのかがわかりませんでした。

 

 町の中に空地がなく、住宅が建ち並んだ状態という意味でしょうか。それであれば、下の大正10年の地図に見るように、町の真ん中に広い内藤家の屋敷と多武峰内藤神社があり、そのため住宅の密度は低いように感じますし、それぞれの家の庭は広いようですが、かなり住宅は建ち並んでいるようにも見えるのです。

 

 そんな疑問を抱いていたところに、昭和14年以来内藤町に住み続けている武英雄氏の書いた『内藤新宿昭和史』という本が見つかりました。著書の中には「大正10年に町民の氏神様として内藤神社をお祀りしたいとの希望で、内藤家承認のもとに作った神楽講」があったこと、大正14年5月に内藤町町会が発足したこと、そしてその時に、先の神楽講を解散して「五名の神社委員を町会役員より選出して、神社守護に当たった」こと、また神社の社務所が町会の事務所として使用されていたことなどが記されていました。

 

 

 こうした動きは、貸地や貸家とはいえ、町内に永く住み暮らしている町民が多くなっていて、地域をまとめる町会の必要性が高まっていたことを示しているとともに、内藤家の氏神を町の氏神としても祀ることによって、精神的なよりどころを求める意味合いもあったのではないかと思われます。また町会の事務所が、神社の社務所に置かれていたことも、地域コミュニティの核が内藤神社であったことを示しているようです。

 

 また大正14(1925)年という年を考えますと、町内には大正12年9月1日に起きた関東大震災の被害を受けた住宅もあって、災害時にはことに重要な役割を果たす、地域コミュニティの必要性を町民の多くが感じていたのかもしれません。

 

 いずれにしても、大正14年に町会の発足と、氏神様の祀りという形が整えられたことによって、内藤町は住宅地としての完成をみたのではないかと思われるのです。

 

 もう一つは、町の東側の元は大番町通りと呼ばれていた道路が、昭和10年頃に拡幅されて改正道路(外苑西通り)となりましたが、この時に内藤町側の土地が削られたのです。これによって町民の立ち退きに伴う転出や移転、あるいは新規の転入などがあり、住宅や商店の建て替えなど街並みが大きく変化したものと考えられます。

 

 そうした変化は、前に引用した『明治の東京』で馬場孤蝶氏が昭和12頃に歩いた時に、以前と比べて「邸が皆綺麗」になっているという印象に現れていたのでしょう。

 

 内藤町の現在に続く住宅地としての歴史は、こうした変化を経たうえで『総覧日本の建築』の記す、町が完成した状態になったと思われるのです。

 

図版出典:『地図で見る新宿区の移り変わりー四谷編』新宿区教育委員会 1983年

引用文献:『総覧日本の建築第3巻/東京』日本建築学会編 新建築社 1987年

     『内藤新宿昭和史』武英雄著・発行 紀伊國屋書店発売 1998年

     『明治の東京(復刻版)』馬場孤蝶 丸ノ内出版 1974年(元版1942年)

 

<<消えた渋谷川と街と庭園ー12 新宿内藤町 ⑫

>>消えた渋谷川と街と庭園ー14 新宿内藤町 ⑭

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