<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園-12>

明治期の特色を残す庭園

大隈庭園②

□ 大隈庭園ー(2)

――庭の歴史をたどる――

 大隈庭園は早稲田大学のキャンパス内にある大学附属の庭園で、大学の創立者である大隈重信の邸宅跡に残された数少ない明治期に作庭された庭園です。とはいえ東京に残る庭園の例にもれず、戦災を受け戦後に改修されていて、その後も周囲の建築の建て替えや新築に伴って改変された部分も見られるため、景観的には作庭当時とは大きく変わっています。しかし、大隈庭園の特徴である芝生と流れは現在も残されていて、明治期の庭園らしさを感じることができます。

 

 近くの甘泉園が大名庭園に起源を持つように、大隈庭園も大名庭園であったと伝えられています。天保年間(1830~44)に高松潘の下屋敷であった時に作庭された庭で、近江八景を写した庭であったようです。維新後転々と所有者が変わり、大隈重信が買い取って別邸としたのは明治7年(1874)のことでした。

 

 この当時、大隈重信は神田錦町に屋敷を構えていましたが、明治9年(1876)麹町区飯田町一丁目の雉子橋外に土地を購入し、転居しました。明治11年(1878)には雉子橋邸内に西洋館を新築し、庭園も芝生と曲線の園路をもつ洋風の造りとするなど、本邸の整備に力を注いでいました。

 

 大隈重信が早稲田の別邸に移転し、本邸としたのは明治17年(1884)で、転居と同時に本邸としての建物の建設を開始しています。早稲田本邸の竣工は明治20年ですが、庭園もこの時同時に完成したのではないかと思われます。

 

――江戸の庭の面影を地図から読む――

図-1 クリックで拡大されます
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 図-1は明治16年(1883)測量の早稲田周辺の地図です。大隈重信が、早稲田に転居したのは翌、明治17年ですから、まだ別邸であった時の様子が描かれていることになります。大隈邸の周辺は、北、東、南と3方向に水田が広がり、西側の台地にかかったところに、早稲田大学の前身の東京専門学校の校舎がこじまんまりと建っています。まさに大隈邸は早稲田たんぼの中にあったといえるでしょう。ことに北側の水田の先には江戸川(神田川)の流れがあり、その流れにそって目白の台地の緑濃い崖線の連なりが見えるという、まさに東京というよりも江戸の郊外の農村風景が広がっていたことがわかります。

 

 大隈邸の庭園について、この地図から読み取ることができるのは、確かではないにせよ、江戸時代の大名庭園の様子がうかがえることです。まず庭の三方向、北・東・南に築山が設けられています。これは平坦な敷地であるために、庭の背景を造ると同時に地形に変化をもたらす手法で、築山を築く土を掘り上げたところが池になるわけです。池は大小の池が4つ連なっていて、大きな水景を見せるというよりも変化に富んだ水景を楽しむ考えであったのかもしれません。近江八景をモチーフとしたと伝えられていますが、大名庭園には和歌に詠まれるような名所を、作庭における景観モデルとする例が多く見られます。この庭園もそうした庭造りがされていたのかもしれません。

 

 築山や池のほとりには園路が描かれ、池を渡る橋らしきものも見えるので、様式的には池泉回遊式の庭園であったといえましょう。

 

ミニ知識

近江八景

琵琶湖周辺の景勝の地を、中国の瀟湘八景にならって選んだもので、その景を詠んだ詩歌から始まり、画題にもなる。(中略)今日いわれているのは近世に入ってからのもので、(中略)その景勝名は<栗津晴嵐・瀬田夕照・三井晩鐘・幸(唐)崎夜雨・矢橋帰帆・石山秋月・堅田落雁・比良暮雪>の八景。(『国史大辞典』より引用)

 


――水源を地図から読む――

 池があるとすれば、水源はどうだったのでしょうか。甘泉園の場合には、台地の中腹から湧き出る湧水を水源としていたわけですが、大隈邸は低地で水田に囲まれている場所です。考えられるのは、水田に水を供給している水路、あるいは川であり、自噴するほど水量の豊かな井戸でしょう。

 

 この地図では、幸いにも水田の中を流れる小川の流路を、はっきりとたどることができます。南西の方角から流れてきた小川は、敷地の南の隅をかすめて、東へ流れ下っています。この川は蟹川といわれ、尾張家の下屋敷である戸山荘の庭の大池から流れ出し、早稲田の水田を潤す川であったのですが、この川の水を屋敷内に引き込んで、池の水源としていました。取水された水は、庭内の4つの池を経て敷地の北東の端から流れ出し、細流に落ちているように見えます。この細流は、水田の中を東流し、小日向町で再び蟹川と合流し、やがて江戸川(神田川)に入っています。

 

 また、この地図には、池に注ぐ水源からの流れと思われる線が3本見ることができます。仮に、東の流れ、南の流れ、西の流れとしますが、蟹川に接近しているのは南の流れと東の流れで、西の流れは築山を廻り込むような形で線の表現も細いため、西の流れは湧水であったのかもしれません。いずれにしても、池の水源からの流れと思われる水流は3本あったことは確かでしょう。

「せき口上水端はせを庵椿やま」 (広重『名所江戸百景』)

 江戸川の流れと早稲田たんぼの景が描かれている。右手には現在も残る芭蕉庵。椿やまは現在の椿山荘から野間邸にかけて、古くから椿山とよばれていた。

 

 

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