<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園-14>

明治期の特色を残す庭園

大隈庭園④

□ 明治末期の元大隈庭園(明治42-43年)

図-3 明治42年測図の地形図(クリックで拡大されます)
図-3 明治42年測図の地形図(クリックで拡大されます)

 明治も末になると、早稲田も市街化が進み、大隈邸の周辺は、道路が新設され、住宅が建ち、大隈邸も住宅地と隣接する状況になってきました。東京専門学校は早稲田大学と名称が変わり、キャンパスも拡大しています。早稲田たんぼの名残りは、もう北側の江戸川(神田川)沿いに水田が散在するくらいです。

 

 大隈邸は、周辺環境の変化もあったのかもしれませんが、敷地が北、東、南側の三方とも縮小しています。建物は別邸時代と比べるとひとまわり大きくなっています。庭園は細い流れが一筋描かれていますが、明治20年に作庭された流れを表現したものでしょう。

 

 この地図からは、もう水源であった蟹川も見ることができなくなっていますが、この蟹川が暗渠となり地上から姿を消したのは、昭和9年(1934)6月29日だったといいます。

 

 この時期の大隈庭園については、近藤正一氏の『名園五十種』(明治43年)に取り上げられていますが、添付された写真が一葉添えられていて、明治の末の頃の庭園の様子をうかがうことができます。

図-4 大隈伯爵邸の庭
図-4 大隈伯爵邸の庭

 写真は庭の南東から主屋に向かって撮っていて、大隈邸の建物が芝生の先に見えています。中央の堂々とした入母屋造の建物は書院で、右にある寄棟の屋根は居間として使っていた建物と思われます。書院は障子の高さからは軒が通常より高いように見えますが、この書院は二間続きの大広間で、大隈の意匠により障子の上に高窓が設けられていたため、たいへん明るい部屋であったといいます。(「学園漫歩」市島謙吉『随筆早稲田』)この書院からの眺めが最も良く、「庭園の全貌は居ながら見ることが出来る。」(前掲書)部屋であったようです。

 

 書院の東面と南面には大きな沓脱石が見えます。ことに東面の沓脱石は、およそ障子4枚分の長さで遠目にもその巨大さがわかります。(ひょっとすると、この沓脱石が現在芝生の中に据えられているものなのでしょうか。)

 

 庭園は、写真の左手前から奥に向かって流れが見えますが、途中から見えなくなるものの低木の刈り込みが右手に点々と続いているのは、流れを示しているものと思われます。流れの護岸の石もさほど大きくない石を低く据え、ツツジかサツキと思われる刈込みもきわめて低く維持され、そして広い芝生の中に園路が通って、明るく伸びやかな庭園の印象は、京都の無鄰菴を思わせるものがあります。

 

 明治庭園の特徴は「芝生の庭と曲線を描く園路」「刈込物」「流れ」と言われますが、和洋折衷式であるともいわれます。このような作風の庭園を最初に試みたのは、宮廷造園家として活躍した小平義親氏とされていますが、「氏の採った手法は従来の日本庭園で常套的に用ひられた飛石、石組、石灯籠を一切捨て去り、其の代りに緩やかな芝生の間を心地よいカーヴを描いて走る曲線園路を設け、芝生の諸処に丸型刈込物を配して苑路の効果を高めたものである。」(「明治時代の洋風庭園」『庭園襍記』針ヶ谷鐘吉)と新しい様式であったことを述べています。

 

 針ヶ谷氏は、続いてこの様式の実例として「明治神宮旧御苑」「旧細川侯爵邸庭園」「旧鍋島侯爵邸庭園」「静岡旧御用邸庭園」「酒井伯爵邸庭園」「阿部伯爵邸庭園」「渋澤子爵瞹依村荘庭園」そして、「旧大隈侯爵邸庭園」を挙げています。

 

 これらの庭園に共通しているのは「芝生の庭と曲線を描く園路」と「刈込物」ですが、池よりも流れを好むこともこの時代に多く見られ、山縣有朋の「無鄰菴」「古稀庵」をはじめ、「益田孝邸庭園」や「高橋義男邸庭園」「根津嘉一郎庭園」などが「流れ」をもつ庭園として知られています。

 

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