<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園-15>

明治期の特色を残す庭園

大隈庭園⑤

 大隈邸の庭園は、園芸や庭づくりに強い興味を持っていた大隈重信の好みによって造られたといわれていますが、大隈の意向を受けて、実際に作庭にあたったのは鈴木柯村(佐々木可村・佐崎可村等さまざまに表記される)をはじめ諏訪の銀次郎(庭師)や渡辺華石(画家)であったと伝えられています。

 

 大正13年に刊行された『大隈会館の栞』(高須梅渓編)では、鈴木柯村と表記していますが、「此の庭は故候(大隈重信)の趣味嗜好を中心として斯道の通人鈴木柯村を始め、諏訪の銀次郎、渡辺華石等の人物が其の蘊蓄を傾けて作ったのである、華石氏は画家で、兼ねて造庭や茶の湯などの趣味に通じていた。柯村氏は第一流の築庭家で、文人流の風致に徹底して居た。」と3名の名前をあげると共に、柯村が文人流の庭を得意としていたことが記されています。

 

 大隈重信は、この文人流の庭を好んで、大阪に居た鈴木柯村を東京に呼び寄せ、当時住んでいた雉子橋邸の庭園を作庭させていますが、その後飛鳥山の渋沢邸や靖国神社の奥庭などの作庭を行った柯村が、再び早稲田の大隈邸の作庭に関わることになったのでした。これらの庭はいずれも文人流の庭であったようです。ところが、この鈴木柯村は、先にも記したように名前がさまざまな表記をされると共に、経歴も定かではなく、不明の点の多い人物でした。

 

 また、文人流の庭というのも、今ではよくわからなくなっています。例えば、針ケ谷鐘吉氏の「文人庭とは幕末に京阪地方で流行し、維新後は東京でも流行した形式で、従来の型にはまった作庭術とは異なり、自然律だけに従い、自由に自分の好みのままに築庭された庭のこと。」というだけでは、具体的な庭園のイメージは現代の私たちには伝わってきません。あるいは、「文人趣味の1つの要素として煎茶文化、ひいては中国江南の文人文化の影響を受けた中国風の庭で、大湖石又は大湖石に似せた石を立て、アオギリ、カンザンチク、ハクモクレン、サルスベリ、バショウ等を植栽した南宗画的な景色を見せる庭」という説明では、南宗画に描かれる風景を思い浮かべることはできますが、それと「自然律に従って自由に自分の好みのままに築庭された庭」という文章はどうにも頭の中では結びつかないのです。また、図-4の『名園五十種』の写真を見ても、どこが文人流なのか私にはわからないなど、大隈庭園は自分の勉強不足を感じると共に、消化不良のままで存在しているのも確かです。

 

 

ミニ知識

文人流あるいは文人庭は辞書には載っていませんでした。

文人

「詩文・書画などの風雅をよくする人」 (『岩波古語辞典』)

文人画

「江戸時代中期におこり、明治以降近代にまで続いた、中国明・清代の文人画を学んだ絵画傾向の総称。本来は文人(知識人)が余技に制作した絵画のことだが、日本では職業画家も多く制作にたずさわった。」(『国史大辞典』)

文人庭

文人庭として知られている庭園としては、京都の石川丈山旧宅の「詩仙堂」庭園はよく知られています。新しい庭では未見ですが、広島の頼山陽史跡資料館の庭園(中根金作氏設計)があるとのことです。

 

 


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