明治期の特色を残す庭園
大正11年1月10日、大隈重信は早稲田の自邸で死去しました。85歳でした。当時にあっては、長寿であったといえるでしょう。大隈重信の没後、大隈家から邸宅・庭園およそ9000余坪が早稲田大学へ寄付されました。大学は旧宅を大隈会館として、大正12年4月1日に開館、一般にも公開されました。大隈会館となった後の写真が次の2葉の写真です。
図-5の航空写真を見ますと、明治26年の『園芸会雑誌』の庭園平面図と比べると、園路が変わっているのに気がつきます。園路が増設され、かつ直線が強調されているようです。大隈会館として公開されるに際して改修が行われたのかもしれません。大隈庭園が、大学所属の庭園となった後から、庭園内に大学の施設が相次いで作られて、庭園は減少していきますが、次の図-7は大正15年の校舎配置図です。旧大隈邸の大隈会館の他に、学生ホールができています。
次の図-8は昭和17年の校舎配置図です。大隈講堂が建ち、校友会の建物もできています。 配置図の大隈講堂の建つ位置を考えますと、明治20年に作庭された時の流れの上流部が、東からの流れと、西からの流れの2筋が図面に描かれていたうち、恐らく西からの流れが、築山共ども、大隈講堂の建設時に失われたのではないか、と思われます。
戦争が続くのにつれて、食糧難となり、大隈会館の庭園はサツマイモが植えつけられた畑になったといいます。広い芝生地は、畑にもしやすかったのでしょう。やがて、昭和20年5月25日夜の大空襲によって大学も含めて、早稲田一帯は壊滅的被害を受けました。これによって、大隈重信の邸宅の庭であった「元・大隈庭園」は消滅したといってもよいでしょう。