<神田川沿いの街 早稲田の街と庭園-18>

明治期の特色を残す庭園

大隈庭園⑧

□ 戦後の新しい大隈庭園

 戦後改修された大隈庭園は、西田富三郎氏が『東京の庭』(昭和43年紀伊國屋書店)や『写真で見る東京の庭』(昭和46年金園社)で紹介していますので、その中の文章と写真とを借りて、この時期の庭園をみると共に、平成の現代との比較をしてみたいと思います。

 

 「もとの大隈重信侯邸である。1897年(明治30年)ごろの築造で作者は佐々木可村。戦災をうけてほとんど潰滅したが、その後大隈会館の新築とともに、復旧と改修とが行われた。設計は龍居松之助氏。

 遠景に築山をつくり小滝からの水は、長い流れとなっている。その間護岸石組や刈込物などを配したもので、池泉観賞式の名残りをとどめた近代庭園である。川尻池付近には、一区画仕切って新たに茶寮を配している。

 近景は広々とした芝生になっている。芝生内にはところどころに飛石、延段等を浮き彫りのように現わしている。清新で軽快な庭である。遠景の石組や配植物に繊細なものを多く用いたため、庭はいっそう女性的な優雅なものになっている。」

 

 まず庭園の築造年代を1897年(明治30年)ごろと記していますが、現在では早稲田邸を本邸として移転し、そのための建築が竣工した時期、1887年(明治20年)ごろに庭園も完成したのではないかと考えられています。

 

 次に作者は佐々木可村としていますが、これも先に記したように、佐崎可村ではないかという説が有力になっている他、佐崎可村の死亡したのが1885年(明治18年)という調査報告があることなどから、佐崎可村の仕事もようやく明らかになろうとしているようです。(『渋沢栄一の造営した曖依村荘庭園の特徴と近代庭園史上における位置づけ』正田実知彦 平成24年)

 

「遠景に築山をつくり小滝からの水は、長い流れとなっている」という文章からは、次のことが推測されます。

・ここにいう築山は、元々からあった築山と思われます。しかし、戦火で樹木が焼けてしまったために、多少築山の形態を変えたことはあり得るでしょう。流れの流路も変わったことも関係があるのではないでしょうか。

・「小滝からの水」とは水源のことでもあるでしょう。元々の水源であった蟹川は、昭和9年に暗渠となっていますので、水源は水道又は井戸となり、ポンプで循環する仕組に変えていたのかもしれません。こうした改修の中で、流れは「小滝からの水」から始まるように改修されたと想像してみますがどうでしょう。

・平成の現代では、この小滝が失われて不自然な流れの始まり方になっているのが残念です。

 

「川尻池付近には、一区画仕切って新たに茶寮を配している。」

戦前の「元・大隈庭園」の図面では、流れが一度池となった後さらに流れが続き、流末は二筋に分かれていたので、この池のところで流れを終らせる形に変更したのでしょう。これは現在にもそのまま受け継がれている形です。

 

また一区画仕切って、茶寮を、という部分は、古民家「完之荘」とそのまわりの茶庭風の庭園のことで、この部分は大きく改修を加えたところでしょう。

現在でも茶庭風の庭園ではありますが、やや手入れが行き届かないために、せっかくの庭が見栄えがしません。

 

「芝生内にはところどころに飛石、延段等を浮き彫りのように現わしている。」

こうした光景は西田氏の写真にも写されており、また、現在も見ることができます。

図-13 昭和40年頃(『写真で見る東京の庭』西田富三郎)
図-13 昭和40年頃(『写真で見る東京の庭』西田富三郎)
図-14 平成23年撮影
図-14 平成23年撮影

 しかし、昭和40年代初めでは、飛石や延段、恐らく沓脱石も、大隈会館に接続するものであったわけで、現在のようにただ芝生の中の「浮き彫り」であったわけではありません。 ただ、これらを残してくれていたおかげで、大隈会館の位置がわかり、建物と庭との関係や、旧大隈会館の庭園としての空間構成を理解することができるのです。

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