新江戸川公園をはじめ、隣接する和敬塾、細川家の永青文庫は熊本藩細川家が江戸に所有していた下屋敷の一つでした。この下屋敷は、尾張屋版江戸切絵図「雑司が谷音羽絵図」(1849~1870)にも描かれていますが、絵図には「細川越中守」という区画と「細川越中守抱ヤシキ」という区画に分かれているのに気がつきます。
これは同じ下屋敷の土地であっても、幕府から拝領した屋敷地と、熊本藩が独自に買い取ったり、借入れたりした土地とがあり、独自に入手した屋敷地は「抱え屋敷」といわれていて,絵図はそれを描き分けているのです。いずれにしても、合計すれば1万5千坪という広さであり、北は台地上の目白通りから、南は斜面を含めて台地下の神田川のそばまで広がっています。
ところで、絵図には目白通りに接して小さく松の木の絵が描かれていて、鶴と亀という文字が見えますが、これは当時細川家下屋敷の門前に、名木として名高い2本の松の木があって、それぞれ鶴と亀と名付けられていたものを指しています。
江戸時代この下屋敷にどのような庭園が造られていたのか、定かではありませんが、幕末期には細川家10代斉護(なりもり)の長男慶前(よしちか)の未亡人・鳳台院の御殿が設けられていたといわれていますので、庭園も当然造られていたと思われます。