<神田川沿いの街 目白台の街と庭園-11>

新江戸川公園⑧

□ 歴史をたどる―明治期の古地図を読む①

明治16年測量、19年製版の東京実測図に描かれた細川邸(クリックで拡大されます)
明治16年測量、19年製版の東京実測図に描かれた細川邸(クリックで拡大されます)

 明治維新後細川家は、新しい華族制度のもとで侯爵となり、明治15年(1882)目白台の旧下屋敷を本邸と定めます。この時期の敷地の状況は、翌16年測図の東京実測図で知ることができますが、台地の上は目白通り沿いに小規模な建物が数棟並んでいる他は茶(桑)畑となっています。

 

 台地上の目白通りに面して正門が設けられていたのですから、地図で茶畑になっているところに、本来下屋敷の主要な建物や庭園があったものと思われますが、明治政府の桑茶政策によってそれらは取り壊され、失われてしまったと思われます。

ミニ知識

桑茶政策(そうちゃせいさく)

 徳川幕府が滅んで徳川氏が家臣を連れて、靜岡へ去り、大名が領国に帰ると、武家屋敷は空家同然となった。邸内には雑草おいしげり建物は荒れるに任されていた。これらの建物をとりつぶし、開墾し、桑や茶を植えようとしたのが東京府知事の大木喬任で、明治二年八月のことであった。このとき、諸大名が贅を尽くした名園はこわされ、世界一を誇った江戸の町も各地で農地化していった。明治四年七月、由利公正が知事になって、この政策は中止された。

(『日本の公園』田中正大・鹿島出版会・1974)


 一方、台地の下の平坦地(現新江戸川公園)には、却って大規模な建物が見られますが、これは幕末期の鳳台院の御殿がそのまま残されていたのではないかと思われます。そうであれば、庭園も幕末の頃と変わらない姿を見せていたのではないでしょうか。

 

 池の形は、現代の形とも大きくは変わっていないように見えます。違っているのは、現在の土橋の東側の小さな池が、周りにある水田と同じ記号であることで、ここは稲を植えた田んぼであったかもしれません。(そうした例は小石川後楽園にも見ることができます)あるいは、水田と似た形状の菖蒲田であった可能性も考えられます。

 

 細川公爵家が、目白台の屋敷内に、本邸にふさわしい建物を建設したのは、台地上の現在目白台公園(元国家公務員共済組合連合会運動場)となっているところでした。当時は、華族や富豪などの上流層では、洋館と和館とが同じ屋敷内に並んで建てられるのが普通で、細川家でも明治25年(1892)に片山東熊の設計で、まず洋館が竣工し、続いて26年に木子清敬の設計で和館が竣工しました。

 

 片山東熊と木子清敬は、ともに宮内省内匠寮の技師で、宮廷建築家として知られていました。片山東熊(1853~1917)は、帝室奈良博物館、東宮御所(現迎賓館)、表慶館、などを設計し、宮内省内匠頭。木子清敬(1844~1907)は、皇居明治宮殿、東宮御所などの伝統的な和風建築を得意としていました。

 

 

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