<神田川沿いの街 目白台の街と庭園-12>

新江戸川公園⑨

□ 歴史をたどる―明治期の古地図を読む②

明治42年測図の地形図(クリックで拡大されます)
明治42年測図の地形図(クリックで拡大されます)

 公爵家にふさわしい洋館,和館が出来上がった明治25年~26年頃に、台地下の鳳台院が住んでいた御殿や庭園に変化があったのかどうか、定かではありません。しかし、明治も末に差し掛かった42年測図の地形図には、台地上に本邸にふさわしい大きな建物が描かれていますが、台地下の池のほとりにはかつての大きな御殿の代わりに、少し規模を縮小した建物が見えています。

 

 こうした変化は、時期はわかりませんが、本邸としての建物が完成した後に、江戸時代の御殿は解体され、新たに庭園のための建物が作られたのではないかと思われます。この時に庭園も改修されたのではないでしょうか。改修といっても、地図に現れるほど大規模なものではなく、建物周りを中心とした模様替えだったかもしれません。もうひとつの変化は池の東端にあった水田(または菖蒲田)が、池に変わったことでしょう。

 

 この時の改修によって、現在見る池の形が出来上がったとすれば、瓢箪型のバランスが悪いのも、部分的な改修で終わった結果であればやむを得ないことと理解することができます。

 

 ところで、この明治42年の地形図には、江戸切絵図に描かれていた鶴亀松という文字が書かれています。実は、昭和4年の地形図にものっているのですが、どうやら鶴と亀との2本の名木は大正の末頃までは残っていたようです。

 

 この鶴亀2本の名木を、実際に見た人の話が,『東京の庭つくり』(東京造園倶楽部・昭和59年)の中に収められています。この文章が書かれた時に93歳という高齢の山田倉三さんの話で、時は修業時代(明治末)の頃といいます。

「当時はまだ目白通りの細川家の鶴亀松、目白不動尊、鬼子母神、落合の蛍、面影橋の山吹の里など、江戸そのものといった風情が残っていましたし練馬大根を満載した大八車などが往来する道を、仲間たちと腰の鋏を鳴らしながら歩いて通ったことなど、懐かしく思い出されてなりません。」。   

文章には松が写った写真が添えられていて、細川邸の門前の松の大木は、枝先を何本もの丸太で支えられていて、葉数も少なく老衰は隠しようもありませんが、その姿は名木と言われただけの風格が感じられます。それだけに江戸の頃から目白通りを通行する人たちにとっては、印象的なランドマークだったのでしょう。

細川邸門前の鶴亀松(『東京の庭つくり』)
細川邸門前の鶴亀松(『東京の庭つくり』)

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