<神田川沿いの街 目白台の街と庭園-14>

新江戸川公園⑪

□ 歴史をたどる―昭和。戦前・戦後

  細川公爵家の本邸は先にも記したように、昭和11年に竣工しました。チューダー・ゴシック様式といわれる洋風の外観ですが、内部は洋室と和室とが併存する形態で、戦前の洋館ではよく使われていた手法だったようです。

 

 昭和12年には、中国との間で戦争がはじまり、やがて昭和16年に太平洋戦争が開戦します。つまり、細川家の本邸は、戦前最後の大規模な洋館ということになります

 

 戦争の末期には、東京は空襲により多くの地域が被害を受けました。下町は、ほぼ全域が焼失したといっても過言ではありませんが、山の手の多くの街も大規模な空襲によって被災しました。ここ細川邸のある目白台一帯は、広い敷地を持つ邸宅街で、緑地が多く、逆に人家が少ないために細川邸の被害はさほどなかったようで、洋館も台地下の松聲閣も被災をまぬがれています。

 

 しかし、この時近くの椿山荘が、三重塔と蔵を除いて全焼し、樹木の多くも焼けたと言われていますので、細川邸もあやうく延焼をまぬがれたものと思われます。

 

 終戦後の昭和25年(1950)に、細川家は代々受け継いできた美術品をはじめ多くの文化財を保存する財団法人永青文庫を設立しますが、同年に敷地の一部(現新江戸川公園を含む台地下の土地)を西武鉄道に譲渡します。

 

 次いで昭和31年(1956)には、永青文庫の敷地を除く、旧本邸を含む土地建物は、財団法人和敬塾に譲渡することになりました。

 

 西武は敷地の一部を住宅地として分譲しましたが、昭和35年(1960)に東京都が残った土地を買収し、公園として整備を行い、翌36年(1961)都立公園として開園しました。これによって、江戸以来の庭園が辛くも今に残されることになったのです。いずれにしても空襲や、戦後の混乱期にも失われずに残されたことは、幸運であったと言えるでしょう。さらに加えて、隣接する和敬塾、永青文庫という元の細川邸の土地それぞれの樹林が保護されていることによって、景観的には一体となって良好な環境が維持されていることは、庭園にとって極めて重要なことであり、そして希なことでもあったのです。

 

 この時期の、つまり東京都の公園であった時の写真があります。前に大隈庭園のところでも引用させていただいた、『写真で見る東京の庭』(西田富三郎/金園社・昭和46年)で、写真を撮ったのは、公園として整備されて数年後といったところでしょうか。

東南丘上のほとり
東南丘上のほとり
ひょうたん池を南方から見る
ひょうたん池を南方から見る
松声閣前(正面)からのながめ
松声閣前(正面)からのながめ

 写真を見ると、現在と比べて印象の異なるところがあります。それは全体に樹木が少なく、小さいためか、池の護岸の石や乱杭がくっきり見え、また斜面の中腹も明るく開けた状態であったことです。一方松の雪吊りが見られますが、こうしてみると、雪吊りは公園になった時以来の伝統であったのかもしれません。

 

 その後、昭和50年(1975)に公園は文京区に移管され、文京区立新江戸川公園となり、現在に至っています。

 

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