<神田川沿いの街 目白台の街と庭園-18>

芭蕉庵④

□ 芭蕉庵をとりまく景観と庭・明治時代

『新撰東京名所図会』(東陽堂明治40年 復刻睦書房昭和44年)「目白台下駒塚橋辺の景」(クリックで拡大されます)
『新撰東京名所図会』(東陽堂明治40年 復刻睦書房昭和44年)「目白台下駒塚橋辺の景」(クリックで拡大されます)

 明治時代の姿は、『新撰東京名所図会』(東陽堂明治40年 復刻睦書房昭和44年)のなかの、「目白台下駒塚橋辺の景」に、山本松谷の筆によって描かれています。絵は上流から下流を見ていて、左手の斜面には茅葺きの芭蕉庵や芭蕉堂、句碑などが見え、崖下の通り沿いには水路と石垣、そして生垣に挟まれた簡素な門が見えています。曲がりくねった神田川は、通りからわずかに下がったところに水面があり、農婦が大根を洗っているのがわかります。駒塚橋の左手に茅葺きの門がありますが、これは椿山荘の裏門と思われます。

 

 なんとものどかでありながら、単なる田舎ではなく、風雅な印象を受けるのは、芭蕉庵から椿山荘に続く佇まいにほかなりません。この絵が描かれたのは、明治も末の頃ですが、ほとんど江戸時代そのままの景観の中に加えられた、こうした近代の修景が、風景を洗練したように思います。

 

 この時期には、芭蕉庵は、台地の上に蕉雨園と名付けられた華麗な邸宅を構える田中光顕の屋敷の中に囲い込まれていました。そのため崖下の芭蕉庵の門や、石垣、生垣などは、おそらく田中邸になってから整備されたものと思われますが、私人の屋敷うちにありながら、芭蕉の遺蹟を整備保存してくれたからこそ、この景観が後世に伝えられたのではないでしょうか。

 

 ちなみに田中光顕は、となりの椿山荘に住む山県有朋とは親しく、多くの書簡のやり取りをしていましたが、そうした手紙の中で、自らのことを芭蕉庵主と記すこともあったようです。親しい相手だけに使用した庵号ですが、少し誇る気持ちもあったのかもしれませんし、あるいはてれもあって、使用する相手を選んだのかもしれません。いずれにしても芭蕉庵を保存し、整備して後世に残してくれた人としては、控え目な表現と云えましょう。

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