<神田川沿いの街 関口台の街と庭園-3>

関口台町③

□ 忘れられた坂の名称

 近年は、坂の名称やその由来などを書いた標識や標柱が、道路の傍らに建てられていることが多いのですが、この坂にはそうしたものはなく、坂の名前はわからないままでした。後日調べてみると、七丁目坂という名前があることがわかったのです。

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 地図を見ると、音羽の谷から目白台に上る坂は、南から北に向かって目白坂、目白新坂、その次に七丁目坂があり、さらに北側に鳥尾坂、鉄砲坂、三丁目坂と多くの坂があることを知りました。なかでは、目白坂と鉄砲坂とが古く江戸時代に遡りますが、目白新坂と鳥尾坂は明治時代につくられた坂であることがわかり、その由来も標識に書かれていました。  七丁目坂は、明治期の古地図には名称ものっているのですが、その名称の由来は、音羽通りの町家の並ぶ七丁目から目白台に登る坂、というだけのことで名づけられたのであれば、標識を立てるまでもないと、文京区の教育委員会も考えたのかもしれません。

 ところで、この七丁目坂という坂は、昔から名前が知られていなかったのにもかかわらず、大正時代の新聞で紹介されたことがありました。というのは、街歩きのガイドブックとしては、古典と言ってもよい矢田挿雲の『江戸から東京へ』の中に、「胸突坂界隈」という一章があり、七丁目坂と思われる坂についての記述があるからです。

 

 「実は椿坂と鉄砲坂との間に、ほとんど間道にも等しい小さな―そのくせやはり、すこぶる急な坂道が一本、八っ目ウナギの干物のように、反りをうってついている。けれども住宅地として、高さも日当たりも申し分のないところだから、雛壇のように地均しをして、石垣をとりまわし、分割随意―牧田地所部とやらの高札が立ち、その上の方の大倉発身氏邸の前をおっかなびっくりに、手さぐりでのぼって行くと、独逸学協会学校の横へ出られて、はじめて蘇生の思いをする。」(『江戸から東京へ(八)小石川』・矢田挿雲・中公文庫・昭和50年)

 

 この文章中の椿坂(目白新坂)と鉄砲坂の間にあるのは、鳥尾坂と七丁目坂の二本ですが、鳥尾坂は道幅の広い車が通行できる坂だったのですから、「八っ目ウナギの干物のように、反りをうっている」坂とは七丁目坂と見ても間違いはなさそうです。つまりこの記事の書かれた大正の頃から、この坂は名前が忘れられていた坂であったようで、この様子ではこれからも名もない坂であり続けるのかもしれません。

 

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