<神田川沿いの街 関口台の街と庭園-4>

関口台町④

 □ 江戸の名残、震災前の東京

  『江戸から東京へ』が最初に発表されたのは、大正9年6月16日から大正12年9月1日にかけて、報知新聞に連載されたものです。最終回が関東大震災の日ということで、連載はこの日をもって途絶えますが、それまで東京のあちらこちらに残っていた江戸の名残も、その多くはこの日を限りに消滅してしまいました。

 

 奇しくも表題のとおり東京が、江戸と訣別して近代都市としての東京に変貌する直前の、その最後の記録が『江戸から東京へ』であったのかもしれません。連載は、後にまとめられて戦前、戦後を通じて何度も出版されていますが、それも震災前の東京の街の姿が、この記事の中に生き生きと描かれているためでしょう。

 

 小石川の巻は第八巻目(中公文庫版)で、新聞連載分としては終盤ですので、恐らく震災の年の、大正12年の半ばくらいに現地の調査を行ったのではないかと思われます。そうしたことを考えてみますと、まさにこの記事は震災の直前の七丁目坂の光景であったのかもしれません。

 

 そうであれば、現在もある七丁目坂の途中の石垣は、「雛壇のように地均しをして、石垣をとりまわし」に対応する当時の石垣である可能性もあります。相当な費用をかけて石垣を築いたわけですが、ここ関口台の東斜面からは、護国寺の森や小日向の台地を望む眺望が開けていたといいますので、そうした立地を求める富裕層もいたのでしょう。

 

 矢田氏は、七丁目坂から一本おいて北側にある鉄砲坂からの眺望を、「世の中には、音羽一丁目も、九丁目もありはしない。そんなものはあるかもし知れないが、よく見えないから、ないも同じだ。ここから見えるのは、護国寺の森と、鳩山邸の洋館と、小日向台とだけだ。」と音羽の谷をはさんだ小日向の台地に向かった眺望について記しています。

 

 現代のように、音羽の通りの上に走る首都高速道路に目の前をふさがれたような、眺望どころではない時代には想像するのも難しいのですが、眺望はかつての山の手の高級住宅地が共通して持っていた魅力の一つです。それは、御殿山、島津山、池田山、代官山等山のつく町や、白金台、高輪台、目白台、小日向台等台のつく町がそれぞれ眺望の良い高台にあったことを見れば、理解されるでしょう。そして、山や台のふもとにある庶民の家は、矢田氏の記事のように、あってもないもののごとく木々で隠されるのは、昔も今も同じかもしれません。

七丁目坂
七丁目坂

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