<神田川沿いの街 関口台の街と庭園-11>

椿山荘庭園⑦

□ 土地の歴史・名所としての椿山

 椿山荘の歴史ということであれば、山県有朋がこの地と出会った明治10年からということになりますが、それ以前にも椿の名所としての歴史があり、椿山の名は広く知られていたようです。そこで、名所としての椿山の歴史を椿山荘について書かれた『歴史』(藤田観光・2011)と、江戸の地誌などを参考にしてその変遷をみていくことにします。

 

 享保5年(1720)頃には、昔からこの地一帯に椿が多く自生していたことから椿山の名前で呼ばれていたといいます。当時は百姓地であつたようで誰でも椿の花を見ることができたために、多くの人が訪れ名所となっていったのではないでしょうか。

 

 江戸の地誌のひとつ『続江戸砂子』(享保20年 1735)には「椿山の椿 牛込。 1本にあらず。(中略)当所椿の名所なり。尤多くあり。」と記されています。また文中に「竜隠庵(芭蕉庵)あり」とも記されていますので、名所としては芭蕉庵と一体と考えられていたものと思われます。こうした地誌に取り上げられる名所とは、社寺の境内など庶民にも等しく公開されている場所が選ばれていたようです。

 

 寛政年間(1789~1800)には、上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷の他、数家の武家地になっていましたが、嘉永6年(1853年)に刊行された尾張屋清七版元の「江戸切絵図・音羽絵図」を見ると、現在の椿山荘の地だけではなく、隣の現在蕉雨園の地は更に細かく区画されて武家地になっていて、台地の裾の辺りだけが水神別当と記されています。芭蕉庵はここにあったために、名所として後世まで残ったのかもしれません。

 

 天保5年(1834)に刊行された『江戸名所図会』には、芭蕉庵(竜隠庵)の説明と絵とがのせられていますが、椿山のことは、椿山八幡の項にわずかに「昔は椿多かりし故に椿山と号くという。」説明があるだけです。芭蕉庵とその周辺を描いた絵(芭蕉庵の項参照)も、周りにあるはずの武家地をさけて描かれていて、かつての名所とは変わってしまったことを推測させます。

(クリックで拡大されます)
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 文政10年(1847)に出版された『江戸名所花暦』は、江戸各地の花の名所を紹介するガイドブックですが、この中では椿の名所として椿山の名をあげた上で「関口の通り、上小橋を渡り、右のかたへ上がる阪のうへ一円をいう。今はたえたり。」と、この頃には椿山も名所であったという記憶だけが残っていた様子を伝えています。

 

 この椿の名所の消失に、久留里藩下屋敷や武家屋敷の成立が何らかのかかわりがあるのかどうかは不明ですが、推測でいえば、一つには百姓地であった土地が、武家地に変わったために囲い込まれて、庶人が見ることができなくなった、ということは考えられるかもしれません。あるいは、屋敷の建設や庭園の築造に伴って、椿を含む既存の林が伐採されたということもあるかもしれません。いずれにしても椿山は、寛政の頃には椿の名所という実体を失っていたようです。

 

 しかし、椿山の名は芭蕉庵と一体となって残っていきます。歌川広重の『名所江戸百景』(安政3年~5年 1856~1858)中の「関口上水端芭蕉庵椿山」(大隈庭園の項参照)に見るように、椿山の名は椿の花の名所としてではなく、関口台の一部の地名のようになっています。

 

 明治10年(1877年)、山県有朋がこの地と出会い、その地形に興味をひかれ、後に庭を造り、椿山荘と命名されたことによって、椿山の名は現代にまで伝わったのです。そして平成の現在、庭内に多くの椿が植えられていますが、昔の椿山の地に、次の時代の新たな椿の名所が生まれようとしているのかもしれません。

 

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