<神田川沿いの街 関口台の街と庭園-12>

椿山荘庭園⑧

□ 庭園の歴史・明治

 山県有朋が、椿山荘の地を購入した経緯については、山県が明治30年(1897)に自ら「椿山荘記」を記し、石碑に刻んで庭内に建てて残していてくれています。そのため後世の私たちも、この土地を山県がどのような思いで見ていたのか、ということも知ることができます。

 

 しかし碑文は、漢文で書かれていますので藤田観光(株)が発行した『歴史』(2011)にある現代語訳の文章を一部引用させていただきます。

 

 「明治十年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日には、しばし城北の目白に出かけ、その台地に面白さを感じた。その地のことを尋ねてみると、昔は<椿山>と呼ばれていたという。北側を背にして、南側に日を受けて明るく開けた見晴らしのいい所で、丘や谷川の流れのある素晴らしい場所である。私はこの地を大変好み、遂に全財産を注ぎ込んで買い求めた。茨や雑木林を取り除き、狐狸を追い払って旧宅をそのまま用い、新たに改装。そこを静養するための別宅とし、椿山荘と名付けた。」

 

 碑文によれば、偶然見かけた土地が眺望もあり、丘や谷川もあって地形の変化のあるところを気に入って購入したということですが、敷地の3分の2は平坦地ではなく丘や谷戸が占めていたといいますので、普通であれば購入をためらう土地であったでしょう。それをあえて購入して名園といわれた庭を造ったのですから、土地に潜在している可能性を見抜く眼力には驚く他ありません。

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 庭園の築造がほぼ終わった頃と思われる、明治16年(1883)に測量された参謀本部作成の地図を見ますと、北側の台地上に3棟の建物が南面して建ち、渡り廊下で連絡されているのが見えます。これが主屋なのでしょう。

 

 主屋と思われる建物の前は、南下がりの斜面全体が広い芝生になっています。斜面の下は、南から入り込んでいるY字形の谷戸の分岐点となっていて、西側の谷戸に沿って細長い池がありますがこれが幽翠池です。谷戸はさらに隣地の田中光顕邸に延びていて、そこにも池がありますがここが幽翠池の水源の湧水池と思われます。

 

 もう一本の東側の谷戸には、竹林の中を流れる水路が描かれています。ここももう一つの湧水を水源とする流れで、山県が定めた十勝のひとつ竹裏渓です。流れは幽翠池からの落水と合流し、そのまま流れて江戸川に落ちているようです。この地図には、後に雲錦池と呼ばれる池の姿はなく、まだ椿山荘十勝は完成していなかった時期であったようです。

 

 三つの丘のうち、主屋の建つ北側の丘に向かい合う西側の丘は、丘上の平坦部が茶畑で、斜面はすべて芝生というきわめて明るく、開けた場所になっていました。これに対して東側の丘は、全体が竹林と樹林とで占められていて、その樹林の中を散策路が通っています。

 

 主屋から眺める景観は、南は広々と開けた芝生の斜面の先に早稲田の田園地帯を望む、眺望を主体とした明るく近代的な空間としているのに対して、東に奥深い山中を思わす鬱蒼たる樹林を配して、視線の開放と閉鎖、印象の明と暗、そして人工と自然を対比して見せる構成となっていたようです。

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