<神田川沿いの街 関口台の街と庭園-14>

椿山荘庭園⑩

□ 庭園の歴史――大正・藤田平太郎邸

 大正6年(1917)、山県有朋は明治11年(1878)以来本邸としていた椿山荘を売却しました。庭園をそのまま一木一石も旧観を変えずに残すという約束で、藤田平太郎に譲り渡すことにしたのです。山県有朋80歳の時でした。

 

 山県は高齢になり、長い間丹精込めて維持してきた庭園を大切に守ってくれる相手を選んで譲りたいと考えると同時に、庭園には多大の維持費がかかるため、自らの没後、子供が苦労し、また売却する場合も心苦しい思いをしないような配慮であったようです。

 

 山県は、晩年は気候温暖な小田原で過ごすことを考えて、すでに明治40年(1907)70歳の時に、小田原に古稀庵を造営していました。また、麹町五番町に新椿山荘を造り、東京本邸とすることにしていて、大正6年11月1日に移転しました。

 

 椿山荘の新たな主人となった藤田平太郎は、大阪に本拠を持つ藤田組の二代目で、大阪網島に宏大な本邸を構えていましたが、東京における本邸としてそれまで住んでいた麻布今井町の土地を三井家に譲り、椿山荘を購入しました。

 

 藤田平太郎は、椿山荘の購入を決めた後、すぐに改修の計画を立てていたようです。大正5年(1916)10月30日、藤田平太郎は、山県有朋と親交のあった箒庵高橋義雄邸を訪問した折りに、椿山荘の建物の新築や、門前の道路の新設の計画を語っています。(『萬象録』)

 

 藤田邸となった椿山荘を大正11年(1922)測図の帝都地形図で見ますと、二つの中庭を持つ大きな建物が見られますが、これが藤田の建てた新しい邸宅と思われます。旧山県邸の主屋を東の丘に一部移築して山県有朋の記念館とし、新しく建てる邸宅の位置も西に寄せて渡邊邸(旧田中光顕邸)との境界に近い場所に移しています。廣書院とよばれ、1000坪もの建物面積であったと言われています。

 また高橋箒庵に語っていた正門前の道路新設とは、屋敷前の目白通りに幅員も広く勾配もゆるい目白新坂が新設されていたために、新坂から真直ぐに正門に入るための道路で、門前にあった民家を買収して造ったものです。

 

 大正12年(1923)9月1日関東大震災が発生し、藤田邸も大きな被害を受けました。しかし、大正14年(1925)には白玉稲荷を邸内に移設、また安芸国賀茂郡篁山竹林寺の三重塔を譲り受けて移築するなど、現代にも伝わる新しい椿山荘のイメージがこの頃完成したということが言えるでしょう。

 

 椿山荘は、庭園そのものは大きく変えることなく、しかし周辺環境の変化、ことに早稲田の田園風景が、住宅地に変わってしまっていたことから眺望という庭外の景観を利用する構成を改め、三重塔を西の丘の上に移築して、庭内で自足する庭園の構成に変えたのではないかと思われます。

 

 それによって椿山荘は、眺望という魅力の半ばは失った替わりに、庭内の景観としては、三重塔の求心力によって、新たな魅力を付け加えたのではないでしょうか。

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