<神田川沿いの街 関口台の街と庭園-15>

椿山荘庭園⑪

□ 庭園の歴史――昭和・戦後

 昭和20年(1945)5月25日、椿山荘は東京大空襲による火災で甚大な被害を受けました。建坪が1000坪といわれた宏壮な藤田家の本館をはじめ、邸内の建物はそのほとんどが焼け落ち、残ったのはわずかに三重塔と白玉稲荷、そして蔵1棟だけであったといいます。

 

 庭内の樹木も多くは焼失し、庭内もほとんど壊滅といっていいほどの被害を受け、山県有朋が作庭し藤田家が受け継いだ明治の名園も、これによってその姿を変えることになります。

 

  戦後、椿山荘は、藤田家から藤田鉱業更に藤田興業という企業の所有となり、昭和23年(1948)から復旧工事が始まります。庭園には一万本を超える樹木が、新たに植栽され、建物も昭和27(1952)には本館の一部が完成し、11月には宿泊施設を伴った料亭という商業施設としての椿山荘が開業を迎えました。

 

 椿山荘の庭園は、個人の私庭から、商業施設の庭園という、多くの人に公開された庭園に変わったのです。

 このことは、椿山荘の庭園が商業施設として多人数の利用を考慮された維持管理が必要となるために、ある程度の改造、改修が行われるという変化をもたらすことになりましたが、一方では個人がこれほどの庭園を維持することが難しい時代の中で、庭園を残していく方法でもあったと思われるのです。

 

 昭和28年(1953)には本館全体が竣工、続いて五島慶太の所有していた木春堂の移築、そして翌29年には松永安左衛門設計の茶室長松亭が完成するなど、ようやく施設が整い、新しい時代の新しい椿山荘が姿を現わしたのです。

 

 この時期の椿山荘の概要を示していると思われる平面図(『東京の庭』西田富三郎・所載)を見ますと、建物は北の丘の旧藤田邸のあった辺りに本堂(本館の誤りか)と茶寮があり、江戸川沿いの裏門近くに木春堂、東の丘にも三角堂や稲荷神社(白玉稲荷)、芙蓉堂などが配され、西の丘の焼失を免れた三重塔と共に、和風の趣のある建物と庭園とが一体となって庭園景観を造りあげている様子がうかがえます。

 

 その中で、庭園南端に野外劇場が設けられているのは、公開されている庭園とはいえ、不似合いな施設であったと思われます。こうした変化にもかかわらず、椿山荘の庭園が山県有朋の庭として高い評価を得ていたのは、骨格である地形や幽翠池、雲錦池などの水景がそのまま残されていて、椿山荘の面影が変わることなく保たれていたからではないでしょうか。

営業時間

平日10:00~18:00 

定休日

土・日曜日、祝祭日

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