池田山は、江戸時代には備前岡山藩の下屋敷であったことはよく知られています。その敷地は、寛文10年(1670)に1万坪余りを幕府より拝領したことにはじまりますが、その後周囲の百姓地や他藩の所有地を購入して、3万7千坪をこえる宏大な面積であったといわれています。
下屋敷は、公邸としての上屋敷と違い、別荘であり時に前藩主の隠居する屋敷であったりしますが、野菜の生産などを行って上屋敷に供給する役割りを持っていたともいわれます。
また、敷地が広く眺望もよい場所に設けられるため、庭園を築造されることも多かったようです。藩主家の家族の遊楽や他藩の藩主などを招いて飲食を共にするなど、社交の場でもありました。
こうした下屋敷の役割りを考えれば、大崎の下屋敷にも当然庭園があったものと思われますが、一般に流布しているガイドブック等では、現在の池田山公園が庭園の跡であったと記されています。
それでは江戸時代の庭園は、どのような姿であったのか、それを調べはじめますと、思いがけないことに池田山公園の敷地は、池田家下屋敷の敷地には含まれていないことを示す史料があったのです。
2003年に、江戸開府400年にちなんで、品川区内にあった大名下屋敷をテーマにした「しながわの大名下屋敷」という特別展が、品川歴史館で開催されました。その時の図録に収められている絵図とその解説によれば、下屋敷の主要な建物は、敷地の中央から南側の高台と斜面下に建てられていて、庭園と思われる池も南から入りこんでいる谷戸の奥に造られていたようです。
この図によれば、中央部の建物群をとりまく外周部は、その多くが畑あるいは山林で、北端の池田山公園は、そっくり敷地外になっているのです。