<白金台の街と庭園-11>

池田山公園⑧

□ 歴史をたどる—–明治時代

 池田家の下屋敷であった大崎屋敷の土地は、明治大正を通じ昭和初期まで池田家の屋敷として存続していました。その間の資料は少なく、まして池田山公園の地がどのような状態であったのか、定かにはわかっていません。

 

 しかし明治42年測図の古地図では、池田家の邸宅が敷地の最も西側の高台に建っているのを確認することができます。池田邸へ向かう道路は、江戸時代の道筋そのままに、現在の桜田通りから台地を上る坂道で、その突き当たったところには、円形の広い植え込みを廻る車廻しがあります。

明治42年測図 (クリックで拡大されます)
明治42年測図 (クリックで拡大されます)

 車廻しとはいっても、邸宅がすっぽりと納まるほどの広さがあるのには驚きますが、この車廻しに面している部分が正面の玄関だったのでしょう。

 

 邸宅の南側には、台地上の平坦地いっぱいに芝生が広がり、その中に木々が植えられていたようです。地図からの想像ですが、明治期の庭園に多く見られた、芝生の庭であったのかもしれません。

 江戸時代には、池を中心とした庭園があったと思われる小さな谷戸の奥には、池がありますが、絵図に描かれていた池と比べるとだいぶ小さくなっているように思われます。庭園も池も改修され縮小されたのかもしれません。

 

 一方後の池田山公園の地は、台地の東側から北側に廻りこんでいる上谷という谷戸の小さな支谷であることがはっきり認められます。上谷には水田があって、池田山公園の地にも入り込んでいるようです。これを見ると現在の池の部分は田圃であったようです。

 

 台地の崖から湧水があって、それが谷戸の水田を潤す水源の一つになっていたものでしょうが、後に庭園が造られた時には滝になり、池になっただろうということが想像されます。

 

 この古地図からは、もう一つわかることがあります。池田山公園の地へ通じる道路は、池田邸へのアプローチ道路から途中で北へ分岐し、台地の裾を巻いて行く水田脇の道路一本しかないことです。その道路も、途中で行き止まりになっていますので、これによってもこの地が台地上からは利用しにくい土地であり、逆に谷戸の水田と一体的に利用されていた農地であることは明らかでしょう。

 

 また、私が公園を最初に訪れた時の印象でもある、正門がなぜ台地下に設けられ、わざわざ長いアプローチ道路を敷地内に造らなければならなかったか、という疑問も、要は道路がそこまでしかつながっていなかったという、単純な理由だったわけで、いささか拍子抜けする結論でした。

 

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