大正期になりますと、後の池田山公園の地に関する資料が断片的ではありますが見られるようになります。そのひとつは、高橋箒庵の日記『萬象録』大正6年6月27日の条で、次のような記事があります。
「午後5時、高橋芳太郎氏の招きに応じて大崎山口別荘に赴く。此別荘は木挽町山口女将の病気静養所にして、大崎池田侯爵家邸内にあり。北方崖に面して楓杉等の大木あり。崖下に池あり、隣地鳥山某の松林を見渡して閑静無比なり。」(『萬象録』高橋義雄・思文閣出版)
この短い記事から幾つかのことを知ることができます。まず大正時代初め頃には、池田邸内の宏大な敷地の一部、北方の元畑であった場所は、すでに土地分譲されていたことです。崖際や斜面には、おそらく江戸時代以来の樹々が大木になっていて、市街から隔離されたような閑静な環境は、山口別荘のように市内からも近い別荘地として利用されていたのでしょう。
もう一つの重要な点は、後の池田山公園の地を指していると考えられる崖下の土地は、鳥山某という人物の所有地で、池があったという記述です。明治42年測図の古地図には、水田の記号で示されていた場所ですが、鳥山氏が手を入れて水田を池に造り変えたか、あるいは水田を放置していて水が溜まり、自然に池となっていたか、どちらであったかは定かではありませんが、崖の上の山口別荘からは池のように見えたのだと思われます。
また高橋箒庵氏の記事中にある松林とは、現在公園の四阿が建っている台地上の平坦地や、斜面にあったアカマツと思われますが、これも庭園に植栽されたものかどうかは定かではありません。戦前の東京近郊では、アカマツは雑木などと共にごく普通に自生していましたので、必ずしも庭園に植栽されていたアカマツと断定することはできないのです。
いずれにしても、敷地内にアカマツ林があり、湧水があり、谷底は水が溜まりやすいという条件がそろっていたことは確かで、そのうえ崖や斜面には「楓杉等の大木」が生い茂って背景をつくっていたのですから、庭園を造るための、絶好の条件を備えた土地であったということができるでしょう。