<白金台の街と庭園-15>

池田山公園⑫

□ 歴史をたどる——昭和時代

 東京に残る江戸時代あるいは明治・大正時代に造られた庭園の多くは、関東大震災や第二次大戦時の空襲による戦災によって、多かれ少なかれ被災しているといっていいでしょう。空襲の時の火災では、池田山の住宅地は西側の半分程度の地域は焼失をまぬかれましたが、東側と北側の地域の住宅は焼失してしまいました。北のはずれにあった神戸邸も、焼失地域に含まれていますので、この時に焼けてしまったものと思われます。(『東京都35区区分地図帳、戦災焼失区域表示』日地出版・1985年/初版・日本地図・1946年)

 

 庭園も、おそらくアカマツや楓杉の大木をはじめ、庭木の多くは延焼し失われたと思われますが、庭石や灯篭などの石造物などは焼け残り、庭の骨格は維持されていたと思われます。しかし木々を失った庭は、荒れ果てた姿であったことは容易に想像することができます。

 

 池田山のその後の様子は、戦後の復興が進んだ昭和31年~34年(1956~1959)ごろの状況を示している地図(『江戸東京市街地図集成』柏書房)を見ますと、戦災で焼失した区域も含め、池田山住宅地のほとんどの土地に住宅が建てられています。

 

 神戸邸の在った場所にも、台地上に二棟の建物が見え、そのうちの一棟は以前建物の在った場所に建てられていますが、もう一棟はアプローチ道路をふさぐように建っているのが戦前と異なっています。これが神戸氏の住まいであるかどうかは未確認ですが、神戸挙一氏は昭和元年に亡くなるっていることを考えれば、神戸氏の土地を譲り受けたといわれる荏原青果社長邸になっていたのかもしれません。

 

 敷地も一部ですが、変化を見せている部分があります。すり鉢型の地形の南西部の等高線の幅が狭くなっているのは、斜面を急勾配にして台地上の平坦地を広げた為でしょう。これは台地上の土地を利用するために行われた地形の改変と考えられますが、戦災で焼ける前はこの斜面一帯が大木の生い茂った樹林であったのかもしれません。神戸氏の所有地であったかどうかはわかりませんが、この斜面と樹林が失われたことは、庭園としての広がりや奥行が減少しただけではなく、地形的にもすり鉢形状を強調する結果になったと思われます。

 

 いずれにしてもこの時期は、これだけの広さの庭園を修復する余裕はなかっただろうと想像されます。おそらく建物まわりは手を入れて、庭園としての形は整えたと思われますが、斜面の植栽や池の整備までは手が回りかねたのではないでしょうか。     

 

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