<白金台の街と庭園-35>

八芳園庭園⑫

□ 歴史をたどる―江戸時代(1)

 江戸時代には、八芳園のある白金台をはじめ高輪台、白金の地は、絵図に見るように大名家の下屋敷や抱屋敷、旗本屋敷やその別邸などの武家地と、寺院・神 社の寺社地、そしてその間に散在する田や畑などの百姓地とがモザイクのように混在する土地であったようです。それ以外の商人や職人の住む町屋は、白金の通 り(相模街道、現・目黒通り)沿いに集中する、御府内ではあったものの郊外の感じが強い地域だったのでしょう。 

 図版出典「御府内場末往還其外沿革図書」から編成(弘化3年{1846}『増補港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場』(港区港郷土資料館 2008)
図版出典「御府内場末往還其外沿革図書」から編成(弘化3年{1846}『増補港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場』(港区港郷土資料館 2008)

 絵図は、江戸時代後期の弘化三年(1846)のものですので、町屋が許された慶安四年(1651)以前の旗本大久保彦左衛門忠敬(1568-1639)がこの地に隠棲した頃は、さらに農村の趣が強かったものと思われます。

 

 現在の八芳園の土地をこの絵図でみてみますと、北側の台地の上部に「奥田主馬抱屋敷」、南側の少し下った隣に「嶋津式部抱屋敷」があって、共に桑原坂に面しています。そして両家の敷地の東端の、現在池のある低地には小川が描かれ、川沿いには道が通っています。

 

 また絵図に書かれている奥田主馬という名前は、旗本の人名録といわれる史料『旗本姓名高寄』(天保九年・1838)に「奥田主馬/備後守」とあり、禄高は3.300石、屋敷は虎御門外と記されていますので、2.000石の大久保彦左衛門と同様の旗本だったことがわかります。また嶋津式部も同書や『昇栄武鑑』(天保十二年・1841)に「島津式部久房」禄高3.000石、屋敷は本所二目とありますので、この地は大久保家から持ち主は変わっても、旗本の別邸として存続していたようです。

(『江戸幕府旗本人名事典』全5巻 石井良助・監修、小川恭一・編著、原書房、1989)

 

 大久保彦左衛門の屋敷は、このどちらであったかということですが、三代将軍家光より贈られた松の盆栽を地におろし、後に大木になっていたという言い伝えのある写真を見ますと、後ろに二階建ての久原邸の母屋が映っていますので、台地の上の奥田主馬邸がかつての大久保邸であったように思われます。

 

 その後、この絵図から約10年後に発行された『尾張屋版江戸切絵図「目黒白金図」』(安政四年・1857)を見ますと、二家の抱屋敷は一つの敷地にまとめられて「松平薩摩守下屋敷」つまり薩摩島津家の下屋敷になっています。

 

 こうした江戸時代の土地の歴史の中で、残されている庭園の遺構等はないようですが、八芳園がまとめた『八芳園 庭園の由来』(2003)には、大木になっていた家光の松と、大久保彦左衛門遺愛のサンシュユの写真が紹介されています。このマツは昭和29年(1954)に枯れたことが記されていますし、サンシュユも枯れたということですので、現在は江戸の名残はなく、近代の庭園久原邸としての歴史が残っていることになるのです。

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