<白金台の街と庭園-36>

八芳園庭園 ⑬

□ 歴史をたどる―江戸時代(2)

 次に、後に八芳園となる土地にかかわる川や池といった水系について、改めて絵図を見てみますと、「奥田主馬」「嶋津式部」両家の敷地の東端を流れている小川がありますが、この川は玉名川(たまながわ)と呼ばれていました。玉縄台の斜面にあった「南部遠江守抱屋敷」(陸奥八戸藩二万石)の屋敷内にあった玉名池(玉縄池)から流れ出していた小川で、両家の敷地沿いから覚林寺脇を通り、その後屈曲を繰り返しながら北へ流れ、古川(渋谷川の下流)に注いでいました。

 

 しかし水源と思われた玉名池(南部邸)にも、さらに流れ込んでいる水流が描かれていて、それは白金台に現在も残る三田用水の遺構の近くから分かれた三田用水の分流のようです。つまり玉名池は、大名屋敷の庭園の池であると同時に、三田用水の水をいったん貯めておく貯水池、あるいは調整池の役割を持っていたのかもしれません。

 

 三田用水は、当初の上水としての役割を終えた後は、主に農業用水として利用されていましたので、玉名川も流域の田や畑に水を供給していたものと思われます。絵図にも玉名川に沿って今里村の農地が散在している様子が描かれていて、低地と思われるところには「田」と、やや高い土地と思われるところには「畑」という文字が記されています。

 

 大名家の下屋敷には、先に池田家の大崎屋敷でみたように、広い敷地内には畑や山林、竹林などがあって農産物の生産が行われて、上屋敷に供給する役割がありましたので、旗本の「奥田」「嶋津」両家の抱え屋敷でもこうした畑や、田が作られていたのかもしれません。

 

 ところで、「南部遠江守抱屋敷」の玉名池については、後年すぐ近くに移転してきた明治学院の歴史を記した『明治学院五十年史』(明治学院、昭和2年)の中に触れている文章があります。「(略)今里の高臺にかけては、舊南部藩(注)の鴨池屋敷で、天を摩する樫や欅の大木が欝然と立ち並んで居て、其の奥のほうには何時出来たとも知られぬ可成りに廣い池があった。」と、明治20年(1887)ころの様子を伝えています。広い池には数多くの鴨が集まったところから「鴨池屋敷」と呼ばれていたようです。大木の茂る樹林があり、広い池があったのであれば、それなりの庭園が造られていたことをうかがわせますが、それを伝えている史料は知られていません。明治維新の後に上地されたままであったとすれば、庭園はかなり荒廃して樹木も伸び放題であったものと思われます。

 

(注):舊南部藩とあるが、大名としての南部家は、江戸時代末期には盛岡藩(二十万石)、八戸藩(二万石)、七戸藩(盛岡藩の支藩)の三家があり、南部藩は改称して盛岡藩となっている。ここで引用された南部藩とは絵図に書かれている「南部遠江守」邸のことと考えられるので、八戸藩南部家のことであろう。絵図の描かれた弘化3年(1846)ころの八戸藩主は9代南部信順で遠江守を名乗っている。

 

 図版出典 前回と同じ

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