<白金台の街と庭園 37>

八芳園庭園 ⑭

□歴史をたどるー明治時代(1)

 明治のころのこのあたりの様子を、古地図で見てみますと、かつての「南部遠江守抱屋敷」跡に、江戸時代の絵図には描かれていなかった、かなり広い池が見られます。これが玉名池(玉縄池)だと思われます。そして玉名池につながる三田用水も、そこから分流して玉名池に流入している流れも、さらには池から流れ出している玉名川の流路も、江戸時代からほとんど変わっていないように見えます。

 

 このように明治になっても、水系に関する限りは変わりはないようです。しかし、江戸時代の武家地については、大きな変化があらわれています。後に八芳園となる「薩摩藩島津家下屋敷」跡は、一部は地番が記されて宅地になっているようですが、大部分は農地あるいは空地と思われます。それは敷地の大部分が斜面の記号で広く覆われていて、地形がむき出しになった状態に見えるためで、こうした状態は周辺の武家地の多くに共通しているからです。

 

 こうした状態は白金台に限らず、東京の山の手のかつての武家地一般にみられた状況でした。明治維新後には、東京の人口は江戸の町の人口の半数くらいまで減少したのですから、空き地が目立つのも当然の現象であったのでしょう。

 

 ところで、この「東京実測図」の出た明治20年(1887)には、元「九鬼長門守下屋敷」跡に、築地にあった明治学院が移転してきました。「東京実測図」では玉名川の東側で、「海軍埋葬地」の南の一画です。こうしたところから『明治学院五十年史』には、学院の移転したころの、このあたりの景観について描写している文章がありますので、関連する部分を引用してみます。

 

 明治学院の西側の台地(瑞聖寺の南側一帯の元武家地)は「全體が麥畑で其の邊りに銃巤禁止の立札が揚っていた。無論家らしい家の見えよう筈はないただあの瑞聖寺の高い屋根が今のままにあって、樹間に梵鐘を毎夕響かせて見た。(いた。か)」という状態でした。銃猟禁止とは、鴨池と呼ばれた玉名池に集まる鴨を撃つ人がいたためでしょう。

 

 また、現在の学院正面の南にあった、広大な大名屋敷、旗本屋敷の跡(地図では二本榎西町と書き込みのある一帯)も「廣茫とした麥畑で、大久保公爵の所有地であった。今では随分立派な屋敷町になったが、當時は粗末な番小屋が一軒畑の片隅にあったばかりである。」というありさまで、まるで昔の農村地帯に戻ったかのような景観であったようです。このように周辺の武家地の多くは、畑になっていましたので、元「薩摩藩下屋敷」の土地も同様の状態であったのではないかと思われます。

 

 さらに台地の下の玉名川のあたりは、地図によれば川の西岸は水田あるいは湿地と思われる記号が記されています。『明治学院五十年史』では、「當時は殆ど人跡さえ絶えた頗る寂寥な所であった。(中略)あの邊一體は叢林の下に浅茅が鬱蒼と生茂った沼地で、その東側即ち臺地の麓には一流の細い河が清正寺(清正公・覚林寺か)の方へ流れてゐた。」という状態で、もともとあった水田の跡は永年放棄されて雑木が育ち、チガヤやススキなどが繁茂した湿地になっていて、あたかも自然に戻ってしまったかのような景観を思わせます。

 

 このように明治の中頃の白金台は、古地図と当時を描写した文章から、現在では思いもかけない荒涼とした風景が広がっていた様子が浮かび上がってきます。

図版出典:「東京実測図」『増補港区近代沿革図集・高輪・白金・港南・台場』

(港区立港郷土資料館、2008年)に一部彩色。

営業時間

平日10:00~18:00 

定休日

土・日曜日、祝祭日

お問い合わせ

〒350-0056

埼玉県川越市松江町1-16-1

藤和川越コープ901

TEL: 049-227-3234

FAX: 049-227-3235

お問い合わせはこちらから