<白金台の街と庭園 38>

八芳園庭園 ⑮

 □歴史をたどるー明治時代(2)

 

 その後、明治も末に近い明治42年(1909)の地形図を見ますと、現在の八芳園の土地にあたるところに「渋沢邸」という書き込みがあって、今も残る長屋門や母屋と共に、台地の下には池が描かれています。これが渋沢喜作氏の屋敷です。渋沢喜作氏(1838-1912)は、渋沢栄一氏の従兄弟で実業家でしたが、隠居の地として白金台に居を構えたといわれています。この頃には、周辺も明治学院の洋館の校舎も整備され、人家も増え、隣地には実業家の藤山雷太邸もあって、ようやく地図上でも街らしさが感じられるようになってきました。

 

 ところで、渋沢喜作氏がこの地に住むようになった年は、はっきりとはわかっていません。隠居のための老後の住まいとして考えていたのであれば、渋沢氏が社長を務めていた幾つかの会社(十勝開墾株式会社等)を退いた明治36年(1903)の前後ではないかと思われます。この渋沢邸に隣接する土地に屋敷を構える藤山雷太氏は、渋沢氏より少し早く明治30年(1897)に麹町区平河町から移転してきました。また、明治26年(1893)には、近くの白金の通りを挟んだ反対側の、白金台町一丁目に白金小学校が建っていますので、この辺りは明治20年代の半ばころから周辺の人家も増え、また旧武家地の跡にも実業家などの邸宅が建つようになったものと思われます。

 

 さて渋沢邸ですが、母屋であった建物や長屋門などは今も現存していますが、庭園については梅園があったことと、三代将軍家光から下賜されたマツの大木があったことくらいしか記録に残っていないようです。しかし明治42年の地形図には、すでに池の形が描かれていますので、渋沢邸時代に玉名池や玉名川は埋め立てられ(注)、湿地であったところを渋沢氏が池にしていて、久原邸の庭園ほどではないにしても、それなりの庭園が造られていたのではないかと思われます。

 

 『八芳園 庭園の由来』には、久原氏が玉名川の跡を池にしたと書かれていますが、久原氏は渋沢邸時代の池を、より庭園として趣のある姿に改修したのではないかと考えられます。こうした推測も、もちろん確かな史料にもとずくものではありませんが、渋沢氏が3000坪もの屋敷を構えていて、池まであったとすれば、ありえないことではないと思われるのです。

 

 さらに地図を見ますと、渋沢邸の池からは水路が隣の藤山邸の池に続いています。このように両家の池が水路でつながっているような造り方は、池の工事が同時に行われたことを推測させますし、渋沢氏がこの地に住むようになって間もない時期に、両家の間で行われたと考えることが自然でしょう。その理由は、玉名川が埋め立てられたために流せなくなった、敷地内から湧き出る湧水の処理をすることと、庭園的修景とを兼ねて池を設け、その水を藤山邸の池を経て排水していたのではないかと思われるのです。

 

 (注) 明治42年測図の地形図には、渋沢邸内の池から上流部に流れは見えない。また玉名池も埋め立てられて姿を消している(地形図・品川)。

 

 

 

図版出典 「明治42年測図地形図・三田」『東京1万分の1地形図集成』(柏書房)に一部着色

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