<白金台の街と庭園ー39>

八芳園庭園⑯

□ 歴史をたどるー大正時代(1)

 

 白金台のこの地に、屋敷を構え晩年をすごした渋沢喜作氏は、明治という時代が終わるのを見届けるかのように、元号が変わった大正元年(1912)に亡くなりました。享年75歳でした。その後大正3年には、白金台一丁目にあった白金小学校が、渋沢邸の南側の桑原坂に面した土地に再び移転します。この場所は、現在の八芳園の駐車場のあるあたりです。

 

 そして当時新興の実業家であった久原房之助氏が、渋沢邸の土地を購入したのは、その翌年の大正4年のことでした。久原氏は、神戸の住吉に十万坪と言われた広大な土地に豪邸を構えていましたが、事業の拡大に伴って、東京にも本邸を必要としていました。久原氏は、当初二万坪くらいの土地を探していたといいますので、三千坪の渋沢邸はあまりにも手狭であったのでしょう、のちには周辺の土地を買い取り一万二千坪にまで広げています。

 

 ところで、久原氏が敷地の狭いのにもかかわらず、渋沢邸を購入したのはなぜだったのでしょうか。『八芳園 庭園の由来』では、大久保彦左衛門が三代将軍家光から病気見舞いに贈られたマツの盆栽が地におろされ、樹齢400年をこえて大木になっていたマツの姿に惹かれたからだ、と説明しています。たしかに堂々たる樹形で由緒もあり、久原氏が惹かれたということもわかるような気がします。しかしそれだけではなく、この土地からは当時品川の海が眺望できたということも、選定の理由であったようです。

 

 久原氏が土地を購入して間もない大正5年に、久原氏が箒庵高橋義雄氏に語った話が、高橋氏の日記『萬象録』に記されています。

 

 「余は去月六日摂州住吉に久原房之助氏を訪ひたる時、若し東京に邸宅を構えんとならば氏の既に買い入れたる白金旧渋沢喜作氏邸の如きは今後何程金を掛けても天下の名園とは為らざるべきに就き、生まれながらにして既に名園たる椿山荘を今に及んで購入するに若かずと勧告したるに、氏は健康上海辺に近く然かもその間に空気を汚濁すべき障害物なき場所を好み、東京に於いても近く品川湾を控えたる宅地を選みたる次第なるが、椿山荘が左程に名園なれば猶ほ能く一考すべしと言ひ居りしに、今は其時既に去れり。惜しむべき事なり。」(大正5年3月1日)

 

 この記事によれば、久原氏は健康上の理由から、海に近い土地を選んだと語っていますが、白金台は海に近いとはいえ海辺にあるわけではありません。住吉の本邸も海辺というよりは、海が望める山の上ですので、健康の問題はともかく屋敷から海の広がりが眺望できて、海の空気が感じられる土地に久原氏は愛着やこだわりがあったのかもしれません。

 

 またこの記事からは、ほかにもさまざまなことを読み取ることができるようです。久原氏は、高橋氏からの椿山荘は天下の名園だから購入してはどうかという勧めをやんわりと断っていますが、新興の勢いのある実業家久原氏としては、渋沢邸の三千坪だけではなく、いずれ周辺の土地を買い入れて敷地を拡げ、大規模な庭園とする構想を抱いていたのではないでしょうか。さらに言えば、椿山荘のように名園とはいえ他人が造った庭であり、すでに評価の定まっている庭園を受け継ぐのではなく、自らの好みで一から造りあげて名園にしたいという意気込みも、またあったのではないかと思われます。

 

 一方高橋義雄氏は、親交のあった山縣有朋氏の庭園である椿山荘が、売却されるのであれば相当の財力もあり、庭園に趣味のある久原氏に購入させて、永くそのままの姿で維持してもらいたいという考えであったように思われます。

 

 この二人の会話は、大正5年2月5日に高橋氏が神戸住吉の久原邸を訪れ、建物と庭園とを見学した際に交わされたものですが、それが同年3月1日の日記に記されているのは、この日に鈍翁益田孝氏と、まだ明らかになっていなかった椿山荘を購入する可能性のある人物について話し合っていたためで、この時には大倉喜八郎氏の名前があげられていました。

 

 いずれにせよ八芳園と椿山荘という、現代に残る二つの近代の庭園にまつわるエピソードとして、大変興味ある記録を高橋氏は書き残してくれたということが言えるでしょう。

 

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