<白金台の街と庭園-40>

八芳園庭園⑰

□歴史をたどるー大正時代(2)

 

 大正4年に渋沢氏の土地と建物とを手に入れた久原氏は、既存の渋沢氏の建てた建物はそのまま住まいとして使用する一方、自らの好みを生かした木造2階建ての洋間を、応接用として増築しました。これが現在も残る壺中庵・蘭の間といわれる建物で、大正5年に完成しています。

 

 ところで、壺中庵の建設時に、庭園は造られたのでしょうか。考えられるのは、壺中庵が応接用ということであれば、新しい玄関に合わせて前庭は改修されたと思われますが、それが現在の車回しのある前庭かどうかはわかりません。主邸については、やはり建物の周辺はこれまでの母屋からだけではなく、壺中庵から見る視線を考慮しての改修が必要となりますので、当然渋沢邸時代の庭園の改修工事が行われたとみていいでしょう。なだらかな斜面の芝生の中にマツが点在する、現在見られる庭園は、この時に作庭されたものと考えられます。

 

 大正期の東京の庭園には、広い芝庭に自然樹形のアカマツを植栽する手法が好んで用いられていました。海の見える土地を好み、広さは望みには満たないのにもかかわらず、あえて手に入れた久原氏は、明るく広々とした芝生に点在するマツの間から、品川の海を望む眺望をこの庭の主景としていたのではないかと思われます。

 

 そうした眺望の開けた伸びやかな庭園を構想していた久原氏にとっては、やはり土地の狭さは不満であったのでしょう。その後、周辺の土地を次々に購入して敷地を広げていきます。確認できるものでは、大正7年(1818)に明治学院の神学部寄宿舎セベレンス館の土地400坪を、久原氏が買い受けたことが明治学院の記録に残っています。この土地は「現今の久原邸の池の傍で恐らく学院内で此地程幽邃なところはない。またそれだけ通風や乾燥の點で缺けたところがあった。」(『明治学院五十年史』)という場所で、病人が何人も出たために学院では他所に寄宿舎を作ることにして売却したのですが、久原氏にとっては、池の反対側に土地を得ることは、池とその周辺の作庭を行う上でどうしても必要なことであり、まさに渡りに船の話であったと思われます。それは後に、この土地に茶室夢庵や大護神社が建てられ、池の背景ができ、これまで以上に景観的な奥行きが生まれたことによって、庭園としての景観が整うことになったからです。

 

 もう一つの資料は、大正8年7月18日付けの朝日新聞の記事です。見出しに「住宅難の叫びを他処に贅尽す富豪の新邸 人家潰して大庭園を作る」とあり、当時富豪といわれていた田中平八郎(2代目)邸、服部金太郎邸、藤田家(椿山荘、麻布富士見町邸)などの邸宅とともに、久原邸もやり玉に挙げられていました。久原邸に関しては「(略)又最近の実例には芝白金今里町の久原房之助氏は邸宅拡張の為めに附近の住宅約二百戸を買収して九月までに全部立退くように命じた(略)」という批判的な記事ですが、久原氏が周辺の土地の買収を着々と進めている様子がうかがえます。

 

 この「住宅二百戸」の土地がどこにあたるのか定かではありませんが、『八芳園 庭園の由来』の記述からは、明治学院の近くの後年白金小学校が移転する土地であった可能性が高いと思われます。つまり母屋に近接している小学校を、離れた場所に移転させるために、交換する土地をあらかじめ用意しておく布石のための土地買収であったようなのです。

 

 実に周到というか、強引というか、この時代の一代で財を築いた新興の実業家らしい行為であり、成功のあかしのひとつである大庭園を造る、執念ともいえる思いの強さに驚くばかりです。

 

 

大正時代の明治学院の校庭。教会に向かう園路を軸線とした芝生による整形式庭園が造られていた。この時代久原邸の和風庭園と明治学院の洋風庭園とが隣り合っていたことになる。

図版出典:『明治学院九十年史』明治学院 昭和42年

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