<白金台の街と庭園ー42>

八芳園庭園 ⑲

□歴史をたどるー昭和時代(1)

 

 大正10年の、高橋義雄氏の日記の記事以降、久原邸の庭園に関する情報は極端に減少し、戦後の昭和25年(1950)頃まで、まったくといってよいほど資料は見つけることができません。それは『八芳園 庭園の由来』でも同様で、なんとも歯がゆい思いを感じます。

 

 その中で唯一、昭和2年(1927)に久原邸の土地についての動きがありました。それは、久原邸の隣にあった白金小学校の移転と、跡地の取得という変化でした。

 

 白金小学校は、先にも記したように大正3年に旧渋沢邸のすぐ隣に移転してきましたが、翌年久原氏が渋沢邸を買い取って自邸とすると、母屋にも近く子供たちの声の騒がしさや、子供が庭に入り込むこともあって、庭内の静寂さが失われていたといわれています。

 

 その小学校も、昭和2年5月に、すぐ近くではあっても明治学院寄りの現在地に新たに校舎を建てて移転しますが、『八芳園 庭園の由来』によれば久原氏は周辺の人口の増加とそれに伴う校舎の拡張を予想していて、あらかじめ手に入れていた土地を提供する代わりに、それまでの小学校の土地を譲り受けたと伝えられています。

 

 いわば土地の交換ですが、小学校には今までよりも広い土地を提供しても、母屋近くのまとまった土地を手に入れたのですから、久原氏にとってはようやく念願がかなった思いだったのではないでしょうか。

 

 この土地について、改めて古地図で見てみましょう。図1は、大正14年に部分修正された地図で、白金小学校の移転前の状態を示しています。小学校が桑原坂と久原邸の間にあって久原邸にとってはなんとも目障りな位置にあることがわかります。

 

図1、図版出典:「東京1万分1地形図・三田」大正14年部分修正、『東京1万分1地形図集成』柏

        書房に着色。

図2、図版出典:「東京1万分1地形図・三田」昭和12年修正測図、『東京1万分1地形図集成』柏

   書房に着色。

 次に図2ですが、昭和12年に修正測図された地図では、白金小学校が明治学院に近いところに移転していて、小学校の跡地は空白になっています。久原氏はこの土地には庭園を造らなかったように見えますがどのような使い方をしていたのでしょうか。いずれにしても久原氏にとっては、ようやく思い描いた土地の広さをほぼ手にしたものと考えることができるでしょう。

 さて、こうして念願の土地を手に入れた久原氏は、これ以降庭園の仕上げの段階に入り、茶室の移築や四阿の新設なども行ったものと考えられますが、先にも述べたように、ここから戦後に至るまでの動きを伝える資料は、全く見当たらず残念ながら不明というしかありません。

 

 

参考資料:港区立白金小学校公式ホームページ「沿革」

営業時間

平日10:00~18:00 

定休日

土・日曜日、祝祭日

お問い合わせ