<白金台の街と庭園ー43>

八芳園庭園 ⑳

□歴史をたどるー昭和時代(2)

 

 久原邸については、昭和12年の日中戦争の始まりから、第二次世界大戦の終結までの期間はまったく情報がなく、その変化についてもうかがうことができません。しかし戦争の末期の米軍による東京大空襲では、東京の多くの街が焦土と化した中で、白金台一帯はさいわいにも被災をまぬかれ、久原邸も庭園も戦前の姿のままに戦後を迎えることができました。

 

 昭和25年(1950)東京の各地で戦災の復興が進む中、銀座周辺で料飲店を経営する長谷敏司氏が、久原邸の建物と庭園の一部を借りて料亭を開業しました。このとき名づけられた八芳園という名称は、久原氏がみずから命名したと伝えられています。

 

 こうして久原邸は、個人の私庭という閉ざされた庭園から、飲食費を支払えばだれでも見ることのできる社会的に開かれた庭園に変わりました。開業当時のポスターのコピーに「東京のオアシス」という言葉が使われていたと言われますが、焼け跡からの復興のさなかにあっては、戦災をまぬかれた八芳園の庭園は、まさに言葉どおりに緑濃いオアシスという印象を人々に与えたのではないかと思われます。

 

 昭和27年(1952)久原氏は、昭和25年以来貸していた、建物と庭園の一部を含む土地建物全部を長谷氏に譲渡することになりました。これで久原邸庭園から、名実ともに商業施設の八芳園庭園に変わったのです。

 

 庭園の所有が株式会社八芳園となって数年後の、昭和31年ー34年の状態を示す地図がありますが、この地図を見ますと昭和12年の地図とは幾つか異なる部分が見られます。一つは庭園内に三棟の建物が新たに描かれていることです。そのうちの一棟は、池の東側に建っていて、その位置からは茶室夢庵と思われます。この夢庵は、横浜にあった生糸貿易商の田中平八氏の建てた明治期の茶室を、久原氏が移築し更に増築を加えたものと伝えられていますので、詳しい時期はわかりませんが久原邸の時代に建てられたものと考えられます。

 

 また、久原氏の多摩川近くの別邸にあったと伝えられる、もう一つの茶室霞峰庵と思われる小さな建物も、斜面の途中に見られます。(注・昭和12年の地図は1万分1地形図ですので、小さな建物は地図には現れなかった可能性があります。昭和31年ー34年の地図は5千分1地形図のため、地図に現れたとも考えられます。)

 

 三棟めの建物は、池の南側の敷地境界近くに建てられた大きめの建物で、池と建物の間に「芝」という書き込みがあります。この建物は、現在の本館の一部にもあたり、庭園の芝生で模擬店やジンギスカン焼などを楽しむ場所として、八芳園となって以降に建てられたものと思われます。こうした建物の増加と共に、旧久原氏の主屋も増築されたようで、建物が大きくなっていて、商業施設としての施設が充実されていく様子がうかがえます。

 

 もう一つの変化は、池の形が変わっていることです。昭和12年の地図までは、池の西側と南側に細い入り江が伸びていて細長く出入りの多い形をしていましたが、昭和31年-34年の地図では、両方の入り江がなくなって全体に出入りの少ない緩やかな曲線に変わっていて、ほぼ現代の池に近い形になっています。

 

 また、池の形の変化と共に、北側の池尻から藤山邸の池に続いていた水路も姿を消しています。これは久原邸の池の排水を、旧玉名川の流路と藤山邸の池を経由し排水していたものを、下水道の整備が進み排水系統が変わったことで、不要となった水路を埋めたのではないかと思われます。

 

 こうした変化の中で、なぜ大きく池の形を変えたのかという疑問が残ります。おそらく水路を埋めたことに関連して、池の形態を変えたのではないかとは思われるのですが、なぜこの形であったのかが不明なのです。想像をたくましくすれば、新たにできた南側の商業施設の建物と、その前に広がる芝生の広場から見る景観に、水面の広がりを与えたかったためとも思われるのですが、今は不明とするしかありません。

 

 

 

 

図版出典:『五千分1江戸ー東京市街図集成』「三田・芝浦」昭和31年ー34年 柏書房に着色

 

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