<白金台の街と庭園ー51>

桑原坂界隈 ⑥

□江戸の道から東京の道路へ (2)

 

 

 

 

 明治学院前のイチョウのいわれを調べる中で、桑原坂から桂坂へと続く道は、東京市によって大正十年一月から道路の拡幅が行われたことがわかりました。拡幅にあたっては、明治学院側が3m削られたということですので、道路の反対側もやはり同じくらいは削られて、元々の道幅の倍以上には広げられたものと思われます。

 

 そしてその工事の時に、道路と高低差のある土地については石垣が築かれたのではないかと想像していましたが、学院の『九十年史』には記述がみられず、なお念のため『五十年史』にあたったところ、同じ大正九年の「土地譲渡の件」の中に石垣についての記述がありました。

 先に引用した『九十年史』と重複するところもありますが、その部分を引用してみましょう。

 

 「東京市は大正十年の一月から品川の大街道の庚申堂辺を起点として二本榎通りに出て西町郵便局の前を過ぎ学院の南側を過ぎ今里に於いて緩かな湾曲を画いて久原邸の前をよぎって白金台町に出る大道路を敷設する工事を始めた。それが学院の南側を約二間乃至三間の幅を以て犯すことになった。その代り東京市は実に壮大な石垣を以て其街路に面した高台の壁を築き上げてくれた。現在の南面西側に連っている巨大な大谷石の此辺稀に見る立派な石垣はそれである。」(旧漢字は新漢字に直した)

 

 

 

 この記述によってこれまでの推測は裏づけられたことになりますが、文章中の学院の敷地を削られた幅は二間ないし三間という数字は、『九十年史』の3mと異なっているものの、どちらが正しいのか私には判断がつきません。今は3mということに従っておきます。

ただ石垣を大谷石としている部分は明らかに誤認で、安山岩の伊豆石の石垣の誤りでしょう。

 

 そうした細かいところはともかく、これでこの道筋に見られるほかの石垣も明治学院の場合と同じように、東京市によって築造されたものと考えることができるのではないでしょうか。それにしてもこれだけ長く、高い石垣を道路沿いに築くだけでも大変な工事であったと思われますが、工事に着手して約2年半後の大正12年(1923)7月11日には全線完成し、新しい東京の道路として開通しています。

 

 そして道路開通直後の大正12年9月1日、東京の中心部をほぼ壊滅させた関東大震災が発生しました。しかし石垣はその激震に耐えたようで、約100年後の現在にもどっしりとした姿を見せています。先に見たいくつもの近代建築は、こうした新しい強固な都市基盤の上に次々と建てられていったのでしょう。そのように考えると、近代の土木と建築、そして庭園とが相まって創り出している貴重な街並み、あるいは都市景観がこの道筋には残されているのだということがわかります。

 

 私たち散歩人は、そんな歴史を秘めた様々なものを見て歩くのが楽しみでもあるのです。

 

 引用文献:『明治学院五十年史』鷲山弟三郎 明治学院 昭和2年

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