シェラトン都ホテル東京の庭園 ⑬
□歴史をたどるー明治時代(2)
藤山雷太氏が、この地を求めて移転してきたのは、明治30年(1897)でした。購入した土地は、藤山氏の伝記にば、「普通の場合、住宅には高台を選ぶのが定石である。然るに白金の邸宅は、道路より却って低い部分が多い。是れが為めに土地の値段は安かった。総てではないが、坪五十銭位の処もあったように聞いている。」(『藤山雷太傳』)と記していますので、おそらく宅地以外の、ことに昔の田んぼの跡の湿地は伝記に言うように、五十銭位で購入したのかもしれません。(註)
またこのことは、藤山氏がこの土地の形状を見て購入を決めた時点で、すでに庭園築造の構想を抱いていたことを推測させるものでもあります。当時大庭園を造る場合には、水景は欠かせないものであり、敷地内に玉名川が流れていて、さらに湧水が豊富にあったとすれば、これほど都合の良い条件はないからです。
この時の移転に際して建てられた邸宅は平屋の建物だったようですが、明治42年測図の地形図を見ますと、その位置は「東京実測図」に示されていた宅地の部分です。そして斜面の下の谷筋には、渋沢邸の池から続く水路が描かれているだけではなく、建物に向かう水路も描かれていて、庭園が造られていることを示しています。しかし、移転後12年を経過し当時にはあったはずの玉名川の流れは、上流下流共に姿を消しています。
ところで、隣接する土地は渋沢喜作氏の屋敷ですが、渋沢氏も明治30年代に土地を手に入れ、老後の住まいとして屋敷を設けたと伝えられています。その渋沢邸の池と水路がつながっているのは、玉名川跡を利用して台地から湧き出る湧水を使い、両家が同時期に庭園を築造した為ではないかと思われるのですが、実際はどうだったのでしょうか。
また庭園の築造については、伝記は次のように記しています。
「(庭園は)以前は全く湿潤の地であって地下水が滲出して居るやうな処も少なくなかった。然るに、翁は急がずあわてず着々として多年に亘り種々の工作を加へて、到頭今日見るが如き名園を築いたのであって、土地が低いために至る処清泉湧き、益々邸園の風致を添ゆる結果を齎して居る。」
伝記は後年昭和14年(1939年)に発行されていますので、この地図が作られた時とは敷地の広さも、また庭園の様子も改修が行われているために変わっていますが、湿地であったことや湧水が庭内各所から湧き出ていただろうことは確かなことだったと思われます。
藤山氏が、庭園に渋沢邸のような大きな池よりも、細く長い流れを設けたのも、庭内各所に湧く豊富な水を生かすためであり、また湿地の水を排水して土地の改良を行う目的があったからと考えられます。しかしこの時期の庭園については、こうした流れのあったこと以外、どのような景観であったのかは資料がなく、詳しいことはわかっていないのが現状です。
図版出典:「明治42年測図地形図・三田」『東京1万分の1地形図集成』(柏書房)に一部着色
引用文献:『藤山雷太傳』西原雄次郎編纂、藤山愛一郎、昭和14年(1939)
(註)50銭の価値
『値段史年表』週刊朝日編、昭和62年(1987)によれば、明治30年頃の賃金や物の値段は次の通り
・銀行の大卒初任給 35円 (明治31年)
・大工の1人1日当たりの年平均手間賃 66銭 (明治30年)
・都心での「天丼並」1杯の値段 5銭 (明治30年)
・映画館入場料 20銭 (明治30年)