<白金台の街と庭園ー68>

シェラトン都ホテル東京の庭園 ⑭

 

□歴史をたどる―大正時代 (1)

 

 

 藤山雷太氏は、明治30年にこの地に居を定めてから、周辺の土地を少しずつ購入して敷地を広げていったことが、伝記『藤山雷太傳』(西原雄次郎編纂)に記されていますが、大正11年(1922)測図の地形図では、藤山邸の敷地の境界が示されていて、ほぼ現在の敷地に近い状態になっているように思われます。

 

 建物の位置が変わりないのはともかく、庭園の様子は定かにはわかりませんが、明治期の地図と比べますと、水の流れが敷地を貫くように描かれているのに気がつきます。明治期の地図では、途中までしか描かれていませんが、大正期の地図にはその流れはこれまで最も下流でY字型になっていた位置から、さらに旧玉名川の流路をなぞるように続いていて、流末は桜田通りの下水に落としているように見えます

 

 この下流部分は、地図に描かれてはいなかったとしても、湧水の排水を考えれば全くなかったとは考えられず、あまり目立たない形で存在していたのかもしれません。あるいは、それを庭園的に改修したために地図に現れたのかもしれません。また地図の縮尺の違いがありますので、大正11年の地形図では、それがはっきりと表れたとも考えられます。

 

 こうした違いは見られるものの、地図からはそれ以外の庭園の変化は読み取ることはできません。しかし藤山氏とは親交のあった箒庵高橋義雄氏は、日記に断片的ではありますが、藤山邸の庭園に関する記事を残しています。

 

「(略)藤山氏を訪ひ、過日氏が加波山の兜石と称する大石を買取りて玄関前車廻しの松の大木の下に据え置きたりと云ふを一見せり。目方三千五百貫(13.125㎏)ある由にて従来東京に輸入された庭石中最も大なる者なる由、」(『萬象録』大正2年7月20日)

 

 機械力のないこの時代に、なんと13トンもの大石を運び入れて庭を造っていたということですので、屋敷を構えてからは継続的に、あるいは断続的に庭造りを続けていたのでしょうか。こうしたことは、星野小次郎氏の書かれた『藤山雷太傳』にも記されていて「翁の造園法は(中略)一度に巨萬の財を費して、僅かの期間にどしどし造りあげるものではない。庭樹や、庭石にしても、永い年月を経、だんだんと集めて、造るのであって」と、藤山氏が長期間にわたって庭造りを行っていたことを伝えています。

 

 しかし、このように長い間庭造りを継続して行うことは、隣地に屋敷を構えていた久原房之助氏も行っていました。自邸の周囲の土地を徐々に購入して敷地を広げていく方法をとるのであれば、必然的にそうした庭造りになるのもやむを得ないことであったと思われます。また、庭好きの人の中には、庭を造る過程そのものを楽しむ人もいますので、藤山氏と久原氏はそのことにおいては似た者同士であったといえるかもしれません。そして境を接する隣同士であったことが、互いの水路がつながるような庭造りが可能になったとも考えられるのです。

 

図版出典:「芝西部」『帝都地形図』(之潮2005)に一部着色

引用文献:『萬象録』高橋義雄、思文閣出版

     『藤山雷太傳』星野小次郎、萬里閣、昭和14年(1939)

参考文献:『藤山雷太傳』西原雄次郎、藤山愛一郎、昭和14年(1939)

 

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