<白金台の街と庭園ー70>

シェラトン都ホテル東京の庭園 ⑯

 

□歴史をたどるー大正時代 (3)

 

 『萬象録』の記事をもう少し追ってみます。大正6年は、藤山邸内の高橋氏の石置場に関する記事だけで、7年には何も出てきません。しかし8年(1919)になると次のような記事が見られます。

 

「午前、高山長幸氏来宅、大日本製糖会社改革以後十年記念園遊会を来る二十七日同社長藤山雷太氏邸に開催せんとするに就き、今や庭園築造中なれば明日一覧の上然るべく注意を与へられたしと言ふ。因て承諾の旨回答せり。」(『萬象録』大正8年4月16日)

 

 この記事によって藤山氏が庭園の築造を続けていたことがわかるとともに、園遊会をひとつの区切りとして、庭園を完成させようとしていることもうかがえるようです。また、高橋氏に庭園の仕上がりの状態を見て、気が付いたところを指摘するように依頼をしています。

 

 箒庵高橋義雄氏はこの時代の数寄者として、また茶室、数寄屋風住宅の建築、作庭、室内飾りなどに精通し、茶道の権威と見られていましたが、同時に個人的にも藤山雷太夫妻の媒酌人を務めるなど、きわめて親しい間柄であったことも、こうした依頼をするのにはふさわしい関係であったと思われます。そして次の日に藤山邸に赴きます。

 

 「午前十一時、藤山雷太氏邸を訪ひ、主人及び高山長幸、井澤良立氏等と邸内を検分し、目下築造中の庭園に就き、注意を与へ、又三笠艦の艦材を以て新に三笠と号する茅葺一棟を造り、東郷大将筆の三笠と題する額面を其破風に懸けたるに就き、其室内飾付の注意を与へて辞去せり。」(『萬象録』同年4月17日)

 

 高橋氏は、藤山氏と共に庭園を検分して注意を与えますが、具体的なことには一切触れていません。それどころか、庭園の印象すら記していないのです。高橋氏にしては珍しいことです。まして、これまで藤山邸内の石置場に行った時には、工事中の庭も見ていますし、築庭にあたっている松本亀吉という職人は、高橋氏の自邸の庭造りや、他家から依頼された庭造りにも常に使っている職人で、おそらく前々から話は聞いていて、藤山氏の作庭の意図や考えは十分承知していてもおかしくない関係です。

 

 藤山氏の、独特の美意識によって造られた庭については、親しい間柄ということもあってあえて意見を述べず、尊重していたのでしょうか。そうであれば、庭を見て注意したことは、デザインにかかわることではなく、あくまで技術的な面に限っていたのかもしれません。それにしても他人に見せるわけでもない日記に、一言も記していないのはなぜなのか不思議な感じが拭えません。隣の久原房之助氏の庭を訪れた時の記事と比べると、その違いは明らかです。

 

 それはそれとして、新たに「三笠亭」という建物が建てられています。日露戦争における日本海海戦時の、連合艦隊旗艦三笠の廃材になった艦材を、藤山氏が譲り受けて作られた建物で「亭内には日露海戦に因みある名将勇士の書や写真や絵画を掲げて居る。」(『藤山雷太傳』西原勇次郎)という一種の記念館のようです。高橋氏はその室内の飾付に意見を述べたということでしょうか。

 

 

 

 ところで、『萬象録』のこの日の記事からは、どこか素っ気ないような感じを受けるのですが、私の気のせいでしょうか。高橋箒庵という人は、50歳で一切の仕事から退き、お茶をはじめとする趣味三昧に生きることを決め、実行してきた人ですので、三笠亭のような軍事にかかわるような記念館を、邸内に作ることに違和感を覚えたとしてもおかしくはなかったでしょう。

 

 そんな気持ちが記事を素っ気ないと感じさせる内容にしたのではないかと、つい深読みしてしまうのです。それもこれも、庭について何も書いてくれないことへの私の不満が、そう感じさせるのかもしれません。

 

 

 

 

 

写真藤山雷太

 

 

図版出典:『藤山雷太傳』西原勇次郎、藤山愛一郎、昭和14年(1939)

引用文献:同上書

     『萬象録』高橋義雄、思文閣出版

 

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