シェラトン都ホテル東京の庭園 ⑱
□歴史をたどるー昭和時代 (2)
昭和10(1935)年1月、藤山雷太氏は日本庭園協会の会長に就任しました。日本庭園協会は、1918(大正7)年12月に創立された庭園関係では初めて作られた団体で、一般の趣味人、茶人、数寄者、建築家、庭園専門家など幅広い人たちを会員とする、庭園趣味を楽しむ親睦団体でした。
会長はこの時、日比谷公園の設計に携わった林学博士本多静六氏でしたが、昭和10年に米国庭園倶楽部の日本庭園見学団が来訪することになり、その対応に当たる協会としては、庭園の専門家である本多氏よりも、日本を代表する財界人の一人であり、また彼らを迎えるのにふさわしい大庭園をもつ藤山氏が会長として応対するべきとして、本多氏は自ら辞任して藤山氏に会長就任を懇請したという経緯があったようです。
日本庭園協会が発行していた機関誌『庭園と風景』は、藤山氏の会長就任にあわせ、昭和10年2月号(17巻2号)に藤山氏の庭園の写真を掲載しました。3枚の写真の内1枚は伝記に使われていた写真と同じものですが、他の2枚は庭園主体の写真で、庭園の姿をある程度うかがうことのできる画像でした。
左の写真には、手前に現代のホテルの庭で飛び石として使われている円筒形の石材が写っています。下部にわずかに見える階段に沿って高さを変えながら、低木の植え込みを囲むようにして置かれているのは、縁石と装飾の両面の役割を果たしているようで、なんとも不思議で贅沢な、普通では考えられない使い方をしています。
後ろの林の中には四阿があり、木々の幹の間からは、明るく広がりのある芝生が見えていて、明暗共に備えている庭園だということがわかります。
次の写真は、低い位置にある流れを前景に和館を見上げる構図です。水面にはこれも現代のホテルの宴会場前の池に使われている珊瑚石があります。やはり水に縁のある所に使われています。対岸には、石組と低木の植え込みが見られますが、これは小さいながら滝のようです。伝記に記されていた湧水の一つを滝としたのではないかと思われます。
珊瑚石の右手には沢飛石が対岸に向かって打たれていて、そこからは滝沿いの石段を上って、芝生の庭に出るようになっています。
また、対岸の水辺には朝鮮型の燈籠が立っていますが、一般的な和風庭園であれば雪見灯篭が置かれるところを、朝鮮燈籠というところも独特の好みを示しているようです。ちなみに定かではありませんが、現代のホテルの庭の園路沿いに立っている朝鮮燈籠は、この燈籠かもしれません。
こうして古い写真を見ると、異国の石材を自在に使って、どこの庭をまねたわけでもない藤山氏好みの独自の庭園が造られていたことがわかります。
図版出典:『庭園と風景』第17巻2号 日本庭園協会 昭和10年2月(1935)
参考文献:『この目で見た造園発達史』上原敬二 同書刊行会 昭和58年(1983)
『庭園と風景』第21巻2号 日本庭園協会 昭和14年2月(1939)