<白金台の街と庭園ー77>

シェラトン都ホテル東京の庭園 ㉓

 

□歴史をたどるー昭和時代(7)

 藤山邸庭園について、重森三玲氏の『日本庭園史図鑑』に収められた図面と写真を見比べながら、ひと通りその全体を見てきました。しかし改めてこの庭はどのように解釈すればいいのか、いまだによくわからない不思議な庭園という印象が強く残ります。つまり各部分の様々な表現を貫くテーマというようなものが、見えないもどかしさでしょうか。

 

 そうしたものは特になく、アジア各国の石造品を、単に趣味のコレクションとして集め、展示したということも考えられますが、やはり一つひとつ考えがあって集め、それを庭園の主要な景観要素として、あえて日本庭園の定石から外してまで置くことにこだわったことを考えますと、何らかの強い意思を感じるのです。そしてそのことが、庭園全体の構想になっているように思われるのです。

 

 そこで重森氏は、この著作の中で庭園全体についてどのように評価しているのか、解説を見ていきたいと思います。重森氏は様式についての解説の中で次のように記しています。

「本庭は明治時代に於ける綜合様式の庭園として作庭されて居り、従って各庭園様式が至る処に散見し、それが全く区別さるべきものとなっているのである。そうして而も本庭は只単に従来の日本庭園様式がそのまゝ用いられたのではなく、洋風庭園に於ける各国に於ける各種のものが一つの基礎となりこれを従来の庭園に於ける材料で、特殊な様式づけとしたものであった。」

 

 さらに手法については「本邸庭園は、その様式に順応して、各局部が何れも異なった手法とされ、而も洋風手法が日本化された如きもの至る処に散見し、種々な手法が綜合されて一つの庭園を形成しているのであるから、やはり本庭の生命がそこにあることを知らねばならない。」としています。

 

 重森氏独特の言い回しもあって、ややわかりにくい文意を、私なりに整理してみます。

・藤山氏庭園は、各部分におけるさまざまな庭園様式を総合した、明治時代の総合様式の庭園である。

・ヨーロッパ各国の庭園の手法を基礎として、従来の日本庭園の材料で作庭し日本化した特殊の様式としたものである。

 

 私には、上記の二点について主に記しているように思われるのですが、これについては必ずしも納得できる内容ではありませんでした。それは、洋風庭園の様式なり手法を、日本庭園の材料で日本化したという点ですが、こうした部分は確かにあるとしても、時代的には明治時代ではなく、昭和7年に竣工した洋館に付随した玄関前の前庭であり、また洋館のテラス前の部分であって、それは昭和時代に改修されたものです。また主庭の多くの部分は日本庭園がベースになっていると考えられますし、庭園全体については、ひとくくりには言えないことだと思われるのです。

 

 またアジア各国の石造品については、庭園のイメージに影響を与えているのにもかかわらず、ほとんど触れられていないことも、素直にうなずきがたい点です。

 

  藤山氏庭園は、各部ごとに異なる庭園様式を含んだ総合様式であったとしても、どこかに全体を貫くテーマ、あるいは藤山雷太という人の人柄、趣味、思想などが表れているのではないかと思うのです。それが何かと考えてみますと、最も強く表れているのは、中国・台湾、朝鮮、東南アジアの石材や仏像、灯篭、層塔などの石造品、そして朝鮮の建物などのアジア的な要素がきわめて多いことです。

 

 仮にこれを藤山氏の趣味としてみると、こうした趣味はこれまでにも数寄者が、茶の湯に取り入れた中国や朝鮮の陶器・磁器をはじめ、ハンネラといわれるタイの陶器、あるいは間道(かんとう)と呼ばれる東南アジアや中国南部の縞織物、また近代においても朝鮮における漢の楽浪郡時代の遺跡から出土した器物など、アジア産の道具を使用した茶会が行われていたことを思い起こさせますが、そうした茶会の道具組は、あくまで日本の茶の美学の中に違和感なく収まるものが選ばれていたように思われるのです。

 

 しかし藤山氏庭園では、洋館周りの西洋庭園的空間構成やアジア的な要素としての点景物が日本庭園の美意識の中に収まるのではなく、より違いを鮮明に感じさせて、あえて並列的に扱っているように感じるのです。そうした印象の中からかなり突飛とも思える連想が湧いてきます。

 

 それは、この庭園は藤山氏の汎アジア主義の理念を表したものではないかという考えです。日本においてはこうした政治的理念、をテーマとした庭園もほとんどみられないことや、当時の政治思想や、藤山氏の政治的立場についてはほとんど知らないうえで、、庭園の印象からの思い付きに過ぎないのですが、藤山氏は製糖業を通じて台湾や中国、東南アジアとの関係が深まり、また南洋協会の評議員さらに副会頭に就任するなどアジアに対しての関心は相当強かったものと思われます。そうした中で植民地主義の西洋文明に対抗する意識が強まるとともに、アジア各国の文化に興味を覚えるようになり、やがて石造美術、珊瑚石、石筍などの珍しい石、そして朝鮮の建物を持ち帰って庭園に配置することによって、汎アジア主義の理念を表したのではないでしょうか。

 

ミニ知識  「汎アジア主義」

 アジア諸民族が大同団結して、植民地または半植民地的状態を脱却しようとする国際政治上の立場。 (『広辞苑』第二版)

 

 こうした見方は、まさに突飛な思い付きに過ぎないかも知れませんが、藤山氏庭園を理解しようとしてなお理解できないところから、こんな仮説を考えてみたのです。これもこのブログに時々現れる一デザイナーの妄想として読んでいただければ・・・と思います。

 

 藤山雷太氏は、重森氏の『日本庭園史図鑑』刊行の翌年、ほぼ40年にわたって庭を造り、また改造を重ねてきた特異なそして謎の多い庭園を残して、1938(昭和13)年12月19日、76歳で逝去しました。その庭園の跡に建てられたホテルの庭には、藤山氏遺愛の仏像や石造品が今なお存在しています。謎はまだ謎のままに残されているのかもしれません。

 

引用文献:『日本庭園史図鑑 明治・大正・昭和時代(二)』重森三玲 有光社 昭和12(1937)

 

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