<消えた渋谷川と街と庭園ー4>

新宿内藤町 ④

 

□新宿御苑のまわりを歩く(4)

 大木戸門から新宿通りを右へ、四谷方向にわずかに歩いた道路沿いに、4~5mはあろうかという大きな石碑が建っています。脇に立てられた解説板によると、この石碑は玉川上水を開いた玉川兄弟の功績をたたえるために明治28(1895)年に建てられた水道碑ということです。

 

 同じ解説板には、他にもこの地が玉川上水水番所跡であること、そして近くの四谷四丁目交差点辺りに、四谷大木戸があったことが記されていて、それを示す四谷大木戸跡碑が、この裏側にあることも書かれていました。

 

 大木戸といえば、東海道の高輪大木戸の石垣が、現在も残されていて見ることができますが、大木戸とは「江戸を発する街道の入口に設けられた関門。現在まで伝えられているのは、芝高輪大木戸および四谷大木戸の二カ所である。」(『国史大辞典』)ということですので、五街道の中でも東海道と甲州街道とは幕府が特に重要視していた街道だったのでしょう。

 

 

 上の図は、『江戸名所図会』で描かれた四谷大木戸の姿です。方形に石垣を築き土を盛った形は高輪大木戸と同じ形をしていますが、もともとは江戸の町の出入口でもあり、また防衛施設の一つでもあったために厳重な造りです。昔は石垣の間に木戸が設けられていたようですが、『江戸名所図会』が刊行された天保年間(1830~1844)には、永く平和な時代が続いていたことから、木戸が取り払われて石垣と石畳だけが残されていたようです。

 

 図の上方で、石垣に接している屋敷がありますが、これは御三卿の一つである田安家の下屋敷です。下屋敷だけに門も御三卿という格式からは簡素ともいえる作りで、屋敷まわりも門脇こそ石垣が積まれていますがその上は生垣のようで、さらに側面は芝土手の上に柵があるだけという簡素な作り様です。

 

 この田安家の下屋敷の位置からすると、右上方向が四谷見附を経て江戸府内へ、左下方が内藤新宿の町家を通って新宿の追分に通じている江戸の出入り口ですが、駕籠に乗って供揃いを整えて通るのは、この先の郊外に屋敷のある旗本でしょうか。さらには荷駄を引いて江戸に向かう馬方、石垣の脇で客待ちをしている駕籠屋、高札を見ている人、武家や町人、農夫、芸人等様々な人が描かれていて、思わず見入ってしまいます。当時の大木戸の風景や賑わい、風俗をよく写していて、大木戸という言葉だけではわからなかったこの土地のイメージがようやく理解できたように思われます。

 

 ところでこの大木戸が設けられた場所というのは、地形的には防御施設を置くには最適の場所であったようです。甲州街道は玉川上水と共に台地の高い位置を選んで通っていますが、大木戸のある場所では、街道の両側は谷になっていて、街道はその馬の背のように狭くなっているところを通っています。そこにさらに街道を狭めるように両側に石垣が築かれていたのですから、軍事的関門としては最適の場所を選んで設けたものと思われます。

 

 そうした地形は、現在の四谷四丁目の交差点に立ってみると、新宿通りと交差する外苑西通りは、北側にも南側にも坂で下っているのがわかります。北の谷は江戸城外堀から続く靖国通りの走る谷で、南側は青山と千駄ヶ谷の台地の間の渋谷川の谷で、この交差点の場所は両方の谷の谷頭という場所だったのです。こうしてみると、玉川上水はもとより大木戸の設置場所にも江戸時代の人たちの地形を読む能力の優れていたことを改めて感じるのです。

 

 

図版出典:『江戸名所図会(三)』校註・鈴木棠三、朝倉治彦 角川文庫 1968(昭和43)年

参考文献:『新宿の散歩道ーその歴史を訪ねてー』芳賀善次郎 三校社 1972(昭和47)年

     『江戸東京街の履歴書③』班目文雄 原書房 1991(平成3)年

     『国史大辞典』

 

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