<<消えた渋谷川と街と庭園ー5>

新宿内藤町 ⑤

 

□新宿御苑のまわりを歩く (5)

 四谷大木戸跡の痕跡は、現在ではなにも残されていないようですが、それでも東京都の旧跡に指定されていて、その記念碑が水道碑の裏に建てられています。

 

 この石碑は、地下鉄丸ノ内線の工事中に出土した、玉川上水の石樋を利用したものといわれています。

 

 その玉川上水の水番屋の跡が、石碑の後ろに建っている四谷区民センターで、中には東京都水道局も入っていて、現在も水道に縁のある土地であり、この石碑は大木戸と玉川上水との双方にかかわる記念碑といえるのかもしれません。

 四谷大木戸の石碑のすぐ脇には、四谷四丁目交差点で新宿通り(元の甲州街道)から分岐した新宿御苑トンネル(現在の甲州街道)の入り口があります。その入り口を挟んだ向かい側に木々が生い茂っているところが見えますが。そこが御苑の東の端にあたるようです。

 

 地図によれば、その左側の建物から外苑西通りの間が内藤町になっていますので、甲州街道を渡り内藤町に行ってみることにします。

 御苑の境界が見える場所に立ちますと、右側には御苑のコンクリートの柵があり、左側には住宅やビルが立ち並んでいて、その間は4~5mの幅で雑草の生えている空間がまっすぐに延びています。

 

 これが玉川上水の余水吐の跡で、この空地の下に暗渠が通っているようです。それにしても渋谷川の上流部はほとんど暗渠になって道路や遊歩道にされている中で、暗渠になっているとはいえ、流れの跡がよくぞここだけは残されていたものです。

 

 この余水吐に落とされた上水の水は、渋谷川の水源の一つといわれていますが、思いのほか幅が広いのを見ますと、季節や天候によって変動はあったとしても、よほど水量が豊かであったのでしょう。

 

 

 このあたりの様子は、江戸の絵図にも描かれていて、江戸時代末期の江戸切絵図『内藤新宿千駄ヶ谷辺図』(文久2年〔1862〕尾張屋版)には、大木戸の石垣の位置や、玉川上水水番屋、そして番屋の前から分かれる余水吐の流れが描きこまれています。

 

 また内藤新宿天龍寺の境内の池から湧いた湧水を水源とする流れが、内藤家中屋敷の敷地と畑の間を流れていますが、この流れが本来の渋谷川の源流だったようです。

 

 ところで、余水吐の流れは、内藤家中屋敷の中を流れていたわけですが、明治5年(1872)にこの流れの西側の土地を、大蔵省が買い上げたために、内藤家は余水吐の東側の土地に移転しました。

 

 その後明治24年(1891)になって、町名のなかった大名屋敷跡地に町名がつけられる際に、内藤家の名前を町名としたといわれています。そのため御苑と同じ町名とはいえ、人の居住する内藤町は、狭く南北に細長い土地になったのです。

 

図版出典:『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』新宿区教育委員会 1983(昭和58)年

参考文献:『新宿の散歩道ーその歴史を訪ねて』芳賀善次郎 三校社 1972(昭和47)年

 

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