<消えた渋谷川と街と庭園ー9>

新宿内藤町 ⑨

 

□新宿御苑のまわりを歩く・大京町 (9)

 渋谷川の旧流路は、外苑西通りの東側に続いているようですので、内藤町からは離れますが、道路を渡り大京町に入ります。大京町は、内藤町と外苑西通りを挟んで東に位置し、昭和18(1943)年に隣接する大番町と右京町とが合併してできた町です。

 

 大京町に入った渋谷川は下の右の写真のように道路の反対側から見えていた御影石の欄干の下から東に流れ、四谷の台地に突き当たり、そこから南に流れを転じているようです。現在は下の左の写真に見るように欄干の前にフェンスが立ち、また流路に物置が置かれていて見通すことができませんが、平成20(2008)年頃には流路の奥まで見えていて、そうした状態を確認することができました。

 その先はマンションや幼稚園の裏側になっていて見ることはできませんが、ところどころ建物の間に垣間見える御影の間知石積みの擁壁の下を,四谷の台地の裾を洗うように流れていたようです。

 

 しかし四谷第六小学校脇の、信濃町駅前から下ってくる坂道が、右に大きくカーブしている辺りに流れの跡と思われる細長い空間を持った大番児童遊園がありました。道路からは一段低い児童遊園に降りてみますと、道路際の段差の部分に橋の痕跡が見られるのです。

 両端に御影石を積んだ橋台があり、その上にコンクリートの梁が載っています。その下の部分はコンクリートでふさいだ形ですが、この場所は上の道路が作られたときに設けられた橋ではないかと思われるのです。そこでこの橋のかかった道路がいつ開通したのか、古地図で調べてみました。

 明治40(1907)年に出た「東京四谷区全図」では、道路は色を付けていない白い部分までしか開通していませんでした。それはこの道路が、元々はその脇にある陸軍輜重兵営と、付属する兵器支廠倉庫のための道路であったからだと思われます。しかし上に示した明治42(1909)年測図の「四谷区の地形図」では、赤く彩色した部分が新宿御苑の正門前まで延伸されていました。

 

 新宿御苑が、ほぼ現在の姿に大改修されたのは明治35年から39年にかけての間です。その時に正門も現在地に設けられたのですから、この道路は明治40年から41年頃に新宿御苑のための道路として造られ、この橋も同時に作られたものと考えられます。

 

 しかし先に見た御影石の橋台はこの時のものではなく、後年作り替えられたのかもしれません。それは、明治時代の東京の土木工事では多く使われた石材は安山岩の伊豆石が中心で、御影石は大正以降のものと考えられるからです。そしてこの道路も、昭和10年頃に開通した外苑西通りの工事で御苑の正門前を中心に改修が行われていますので、その時に拡幅された可能性もあり、御影石がこの時に使用されたとも考えられるからです。そうであったとすれば、外苑西通りに残る御影石の欄干とこの橋の橋台は、同じ時期に作られた可能性も考えられるのですが、どうでしょうか。

 

 

図版出典:『地図で見る新宿区の移り変わりー四谷編』新宿区教育委員会 1983年に彩色

 

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