<消えた渋谷川と街と庭園ー13>

新宿内藤町 ⑬

 

□新宿御苑のまわりを歩く・住宅地の歴史 (13)

 住宅地としての内藤町の歴史については、『総覧日本の建築第3巻/東京』に簡略にまとめた次のような記述があります。

 

「旧内藤家中屋敷の一部に明治以降形成された屋敷町。明治維新後、現新宿御苑から移転した内藤家は、明治中期以降の市電、中央線の開通により市中との距離が近づいたこともあって、自屋敷のほかはほとんど茶畑・桑畑だった当地で貸地貸家経営をはじめた。昭和初期には、多武峰神社を中心に、主に高級軍人が住む風格のある住宅地が完成した。また、甲州街道沿いや町の東の改正道路に面しては早くから商業建築が建ちはじめ、内側の閑静な住宅地とは正反対の様相を呈していた。」

 この記述によれば住宅地としての内藤町は、内藤家の屋敷と内藤家の経営した貸地貸家からはじまったことがわかります。しかし簡略であるがゆえに不明な点があります。その一つは昭和初期には住宅地が完成した、ということです。しかし住宅地の完成とは、何をもって完成とするのかがわかりませんでした。

 

 町の中に空地がなく、住宅が建ち並んだ状態という意味でしょうか。それであれば、下の大正10年の地図に見るように、町の真ん中に広い内藤家の屋敷と多武峰内藤神社があり、そのため住宅の密度は低いように感じますし、それぞれの家の庭は広いようですが、かなり住宅は建ち並んでいるようにも見えるのです。

 

 そんな疑問を抱いていたところに、昭和14年以来内藤町に住み続けている武英雄氏の書いた『内藤新宿昭和史』という本が見つかりました。著書の中には「大正10年に町民の氏神様として内藤神社をお祀りしたいとの希望で、内藤家承認のもとに作った神楽講」があったこと、大正14年5月に内藤町町会が発足したこと、そしてその時に、先の神楽講を解散して「五名の神社委員を町会役員より選出して、神社守護に当たった」こと、また神社の社務所が町会の事務所として使用されていたことなどが記されていました。

 

 

 こうした動きは、貸地や貸家とはいえ、町内に永く住み暮らしている町民が多くなっていて、地域をまとめる町会の必要性が高まっていたことを示しているとともに、内藤家の氏神を町の氏神としても祀ることによって、精神的なよりどころを求める意味合いもあったのではないかと思われます。また町会の事務所が、神社の社務所に置かれていたことも、地域コミュニティの核が内藤神社であったことを示しているようです。

 

 また大正14(1925)年という年を考えますと、町内には大正12年9月1日に起きた関東大震災の被害を受けた住宅もあって、災害時にはことに重要な役割を果たす、地域コミュニティの必要性を町民の多くが感じていたのかもしれません。

 

 いずれにしても、大正14年に町会の発足と、氏神様の祀りという形が整えられたことによって、内藤町は住宅地としての完成をみたのではないかと思われるのです。

 

 もう一つは、町の東側の元は大番町通りと呼ばれていた道路が、昭和10年頃に拡幅されて改正道路(外苑西通り)となりましたが、この時に内藤町側の土地が削られたのです。これによって町民の立ち退きに伴う転出や移転、あるいは新規の転入などがあり、住宅や商店の建て替えなど街並みが大きく変化したものと考えられます。

 

 そうした変化は、前に引用した『明治の東京』で馬場孤蝶氏が昭和12頃に歩いた時に、以前と比べて「邸が皆綺麗」になっているという印象に現れていたのでしょう。

 

 内藤町の現在に続く住宅地としての歴史は、こうした変化を経たうえで『総覧日本の建築』の記す、町が完成した状態になったと思われるのです。

 

図版出典:『地図で見る新宿区の移り変わりー四谷編』新宿区教育委員会 1983年

引用文献:『総覧日本の建築第3巻/東京』日本建築学会編 新建築社 1987年

     『内藤新宿昭和史』武英雄著・発行 紀伊國屋書店発売 1998年

     『明治の東京(復刻版)』馬場孤蝶 丸ノ内出版 1974年(元版1942年)

 

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