<消えた渋谷川と街と庭園ー14>

新宿内藤町 ⑭

 

□新宿御苑のまわりを歩く・住宅地の歴史 (14)

 武英雄氏の『内藤新宿昭和史』は、内藤町に永年住んでいる人だからこその、町内の人の動静も記されていますが、なにより戦前の昭和16(1941)年と、戦後の昭和60(1985)年の町内すべての住宅の敷地と住民の名前が記されている手書きの地図が、街の変化を教えてくれます。

 左の地図は昭和16年の内藤町の地図ですが、各戸の敷地と名前が記された、現代の住宅地図といったところでしょうか。

 

 大番町の通りは、すでに拡幅されて改正道路と記されています。目につくのは町の中心に内藤家の広い屋敷があることと、各戸の敷地が全体に広く取られていることです。おそらくそこには庭が造られていて、今もところどころに残るケヤキの大木や、庭の木々が緑豊かな環境をつくりだしていたものと思われます。

 

 ことに町の南側の御苑沿いの6号地、8号地、10号地は敷地が広く、戦時中に内藤家の屋敷は焼失したものの、その他の家は戦災を免れて戦前の家が残った地区だったようです。

 

 また町を南北に貫く道の両側には、内藤家ゆかりの信州高遠のコヒガンザクラが植えられていて、春には花が咲き誇っていたといいますので、なんとも贅沢な隠れた花の名所だったのかもしれません。

 

 こうしたゆったりとした宅地の配置と緑豊かな屋敷町の景観が、『総覧日本の建築』の記す「風格のある住宅地」という印象を生んでいたのでしょう。

 

 

 

 

 次に昭和60年の地図を見ますと、この時にはまだ新宿御苑トンネル(甲州街道)ができる前で、この後トンネルの工事で、1号地と2号地の半分ほどが削られることになります。その部分が空地や広場になっているのは、すでに土地の買収が終わっていたためでしょう。 

 

 それはそれとして、町内の最も大きな変化は、内藤家の敷地が大きく減少していることです。こうした変化は、戦後の富裕税の導入や相続税の改正によって、内藤家に限らず多くの地主層、富裕層に起こったことで、この時期に土地を手放し由緒ある建物や庭園が失われた例は、数多く見られました。

 

内藤家の敷地の減少も、そうした時代を映した現象だったのでしょう。

 

 また、全体に各戸の敷地が分割されて、戸数が増加しているのに伴い、個々の敷地が狭くなっています。そして、ところどころに集合住宅や企業などの寮、社宅ができていて、この時期から街並みが大きく変わっていったことも想像されます。

 

 ところで、『総覧日本の建築』が出版されたのは昭和62(1987)年ですので、この昭和60年の状態を示している地図とは、ほぼ同じころの町の様子を記しているのではないかと思われますので、その文章を次に引用してみます。

 

「戦後、内藤町の土地は一部売りに出され、集合住宅が数多く建つようになり、戦前からの住宅も少なくなったが、現在でも新宿御苑に接する静寂な住環境を保っている。回遊式庭園と武家屋敷風の玄関をもつ矢崎邸や和風に文明開化の息吹をとり入れた三溝邸をはじめ、いくつか残る武家屋敷風の明治の住宅が昭和のモダンな住宅とミックスしている。」

 

 このように、昭和も末の60年頃にあっても、集合住宅が増えたとはいえ、戦災を免れた戦前の住宅が残っていたことがわかります。そしてまたそれらがあることによって、戦前の面影が残る住宅地という印象も失なわれてはいなかったのです。そのことは、私がはじめて内藤町を訪れた平成10(1998)年頃にも私自身が感じた印象で、よくぞこのような町が残っていたものだと当時思ったのでした。

 

図版出典:『内藤新宿昭和史』武英雄著・発行 紀伊國屋書店発売 1998年

引用文献:『内藤新宿昭和史』武英雄著・発行 紀伊國屋書店発売 1998年

     『総覧日本の建築第3巻/東京』日本建築学会編 新建築社 1987年

 

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