<消えた渋谷川と街と庭園ー35>

新宿御苑 ⑳

 

□日本庭園 (3)

 

 流れはやがて広い池につながっていきます。流れの庭の、南北に視界が狭められた空間から、歩みを進めるににつれて空間が広がり、絞られた視界が少しづつ解放されて、次の庭の異なる景観が展開する手法です。そこでは池の広がりだけではなく、旧渋谷川の北岸の斜面全体に芝生が広がっていて、そのところどころに樹高の低い傘型に樹冠を広げたタギョウショウ(多行松)が植栽されている明るい庭になっています

 この特異な樹形を持つタギョウショウは、「アカマツの変種であり雌雄同株で、樹形は株立ち状根元近くから多数の幹を分ち樹冠は倒円錐形を呈する。樹皮、葉形はアカマツと同じ。」(『樹木ガイドブック』上原敬二)ですが、公園や庭園でもあまり見かけない樹木です。

 

 御苑ではこの日本庭園と、イギリス風景式庭園の、中の池に面した斜面の芝生内に植栽されていますが、特徴のある樹形ですが和風にも洋風にも調和する印象から、選ばれているのではないかと思われます。

 

 そうした植栽の選択や、芝生の中をめぐる曲線の園路からは、この庭は日本庭園とはいえ洋風も加味された明治期の近代和風庭園と考えられますが、この庭のようにタギョウショウを多く植栽した庭は、東京ではほとんど残っていないのではないでしょうか。

 そんな中で 明治期のタギョウショウを主とした庭の例として、写真だけですが残されていて、御苑の庭との類似性を感じさせるのは、目白台にあった旧細川公爵家本邸(現目白台運動公園)の庭園でしょう。

 明治期の庭園が紹介されている『名園五十種』(明治43年刊)に収められている写真は、「洋館と書院の前の一部を飾る広庭」ということで、洋風にも和風にも調和する庭が求められたものと思われます。広さは、およそ二百メートル四方もあるという芝庭は、奥から手前に緩やかな傾斜を見せ、奥にタギョウショウ、手前に低木の半円形の刈り込みと、御苑の庭と共通する要素と景観を見せています。

 

 『名園五十種』では、このあたりの説明は「東京名物の禿松(かむろまつ)を饅頭形に造(か)り込んで・・・高さは七八尺から低いのでも人の丈程のが位置よく玆所彼所(ここかしこ)に植はってその間を白砂を敷いた小径(こみち)が縦横(たてよこ)に屈曲して付けてある、又径(こみち)の傍らには霧島躑躅(きりしまつつじ)や丁香(ちょうじ)を同じ姿に刈り込んだのが散在して」とあり、タギョウショウは禿松とよばれていて、東京名物とされていたようです。

 

 この禿松という名称は、手元にある上原氏の『樹木ガイドブック』にも、飯島亮・安蒜俊比古氏の『庭木と緑化樹』にもタギョウショウの別名としては載っていませんが、禿は遊郭で遊女に使われる女の子のことを言い、またその女の子が髪をおかっぱにしていたことから、樹冠の形をおかっぱの髪型に見立ててよんだ俗称ではないかと思われます。しかしその禿松が、東京名物と言われていたことは、全く知りませんでした。和洋折衷式の近代和風庭園が盛んに造られた明治という時期と、東京という土地に限って多く使われていたのかもしれません。

 

 ところで細川公爵邸の庭園ときわめて似ている庭園景観については、両方とも宮内省内匠寮の設計によるためではないかと思われます。細川公爵家本邸の建築の完成は、洋館が明治25年(1892)、和館が翌26(1893)年の完成で、庭園もほぼ同じころと考えられます。洋館の設計が片山東熊、和館は木子清敬と共に宮内省内匠寮の技師でした。おそらくこの時には庭園も内匠寮によって設計されたのではないでしょうか。一方新宿御苑は、完成が明治39(1906)年で、基本設計はアンリ・マルチネーですが、細部の、ことに日本庭園の部分については福羽逸人をはじめとする内匠寮の技師の設計によるものです。つまりこうした作庭手法は、宮内省内匠寮の作風とも言えるのかもしれません。

 

図版出典:『名園五十種』近藤正一 博文館 1910年(明治43年)

引用文献: 同上書

     『樹木ガイドブック』上原敬二 加島書店 1990年

参考文献:『新宿御苑』金井利彦 郷学舎 1980年

 

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